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2019.12.23
かっての紡績工場をホテルとして蘇らせ、保存再生建築のさきがけとなった、あの倉敷アイビースクエアーで、「建築家 浦辺鎮太郎の仕事」-倉敷から世界へ、工芸からまちづくりへ-と題する展示会が2019.10.26~12.22まで開催されました。 12月21日(土)倉敷公民館(浦辺作品の一つ)での第5回目のシンポジウムから、22日(日)の展示会最終日に合わせ、急ぎ足で久しぶりの倉敷探訪です。 実はかって、私が建築学科の学生だった頃、たまたまの倉敷旅行でアイビースクエアーを見て感銘を受け、オイルショック後の就職難の時代、叶うならば不遜にも浦辺設計を卒業後の進路にしたいと考え、浦辺氏宛てに入社を打診する手紙をしたためたことがありました。理由は忘れてしまったのですが、結局その手紙を投函することはなく、何とか建設会社への就職が決まったのでしたが、40年を越える時を経ても当時の記憶とほとんど変わらぬ姿のアイビースクエアーに再開することが出来ました。 展覧会はアイビースクエアー敷地の一画、アイビー会館にて開催されていました。壁面のほとんど全てが蔦で覆われた平屋建。 代表的な浦辺作品の写真、図面、及び模型、スケッチ等が天井高のある気持ちのよい空間に整然と展示されていました。 圧巻は模型の数々で、建築学科の学生達が手分けして造った力作ぞろい。浦辺作品はディテールが細やかで形も複雑なものが多いので、学生達は図面を読み込む作業を通して、たいへん勉強になっただろうと思われます。各々の模型の横には担当した学生達のコメントが添えられていました。
代表作の一つである倉敷国際ホテルの模型(正面側)
倉敷市庁舎は駐車場棟、低層棟、シンボリックな塔のある高層棟と続きます。
後期作品である神奈川近代文学館。横浜にある3つの展示作品のうちのひとつです。
来年は、倉敷に引き続き、横浜でこの展示会が開催される予定。
写真は、「黒と白の時代」と呼ばれる初期の作品である倉敷考古館増築。木造の本館に加えて鉄筋コンクリート造の階段室と展示室の新館を増築したもの。中央の階段室部分外壁は本館と同様に平瓦貼りですが、目地については本館のなまこ目地瓦張りとは異なる平目地張りとなっています。そして、それに続く展示室部分については、大胆にもモルタル仕上げのままの外壁にモダンなポツ窓が穿たれ、上部の壁面は何故かアーチ形状、その上に切り妻の置き屋根(木造・スパニッシュ瓦)が架けられています。 よくよく眺めていると地味ではありますが、実に味わい深いデザインで、階段室部分では既存本館との調和を図りながら、展示室部分は、一転本館とは差別化された自由でモダンな表現が模索されています。以後の浦辺建築の出発点となった作品とのことです。 上の写真は倉敷の浦辺建築を代表する作品、倉敷国際ホテルの外観。 外壁とも庇ともつかぬコンクリート打放しの「壁庇」が階毎の水平ラインを形づくっています。 他の浦辺作品にも共通して見られる特徴的な形態です。 上の2枚は丹下健三設計の旧倉敷市庁舎です(1枚目の道路右手の建物。2枚目はホール内観)。後に3市の合併により手狭になったため、浦辺設計の手で美術館に改修され現在に至っています。倉敷の街並みの中に丹下流のモダニズム建築が忽然と出現したわけですが、別の敷地での新しい市庁舎の設計にあたって、浦辺が出した答えはさて・・・。 倉敷市庁舎が完成したのは1980年。倉敷の伝統的な建築のあるエリアとは異なる新しい敷地に建っています。シンボリックな展望塔、西洋の古典建築をデフォルメして引用したかのような装飾的な意匠、アーチ形状のレンガ壁等々。上の丹下流モダニズム建築とは対極にあるといっても良い、浦辺流のポストモダンな庁舎建築です。 モダニズム的な視点で見れば、決して洗練された建築とは言えず、一見すると今風の商業施設かと見まがうような外観に、竣工当時はおそらく賛否両論(特に建築界からは)があったのではないでしょうか。休日で内部は見ることが出来ませんでしたが、1階に欧州の伝統的な建築に見られる閉鎖的な市民ホールが備えられています(現在の大阪市役所にも同様の市民ホールがあります)。 ここでの浦辺は倉敷の地域性を受け継ぐというよりは、むしろそこからは離れて、西洋の庁舎建築に規範を見出しながら、象徴的で格式のある市庁舎を目指したとのことです。 丹下の市庁舎も倉敷の地域性を参照しない丹下流モダニズムの建築でしたが、ひょっとしたら浦辺に丹下建築への対抗意識があったのかも知れません。 (浦辺は、そのクラフト的な作風に共通点を見出せる村野藤吾を尊敬していたそうです) そして市民の側から見れば、無味乾燥で画一的な公共建築とは一線を画したこの新しい庁舎、かえって親しみを持って受け入れられたのではないかと思います。 「黒と白の時代」の倉敷考古館とは、明らかに異なる、倉敷アイビースクエアーに端を発したといわれる「白と赤の時代」の代表作品です。 不易流行とは松尾芭蕉の言葉ですが、浦辺も終生この言葉を探求し続けたといいます。三省堂新明解四時熟語辞典から転記すれば、「いつまでも変化しない本質的なものを忘れない中にも、新しく変化を重ねているものをも取り入れていくこと。また、新味を求めて変化を重ねていく流行性こそが不易の本質であること。蕉風俳諧(しょうふうはいかい)の理念の一つ」となっていますが、続けて「解釈は諸説ある」とされています。文字自体の意味からすれば、「不易」は変わらないこと、一方で「流行」は時代の変換に応じて変化することであって、芭蕉は互いの相反する言葉をくっつけた上で、「両者は同一である」と説いているので、少し混乱させられてしまいそうですが、「流行に合わせて変化し続けることこそが不易の本質である」と解釈することも出来るのでしょう。 浦辺も営繕技師の時代の工場建築やプレハブ建築に始まり、「黒と白の時代」から「白と赤の時代」を経て作風は大きく変化しています。そして「自分自身をコピーするようなことはしてはならない」と説いていたそうです。浦辺の「不易」とは「時代の要請を見極める柔軟な精神を終生変わらず持ち続けること」であったのでしょうか。その結果として生み出された作品は華麗に変化を遂げながら、時を経た現在においても変わることなく輝きを放っています。 蛇足ですが、この「不易流行」私なりに建築をつくる行為の中で考えると、「時の流れの中で、変わらないもの(変えるべきでないもの・引き継ぐべきもの)と、変わりゆくもの(変化に応じるもの・新しくすべきもの)をしっかり見定めて建築をつくること」と理解しています。 https://tk-souken.co.jp/wordpress/policy/policy_01/ ※この文章を書くにあたって、学芸出版社 「建築家 浦辺鎮太郎の仕事」-松隈洋・笠原一人・西村清是 編著 を参考にさせていただきました。カテゴリ:
2019.04.01
2019年3月28日に建築会館ホールで開催された建築学会主催のシンポジウム「建築の公共性-誰のためにつくるか」 「あなたは誰のためにその建築を設計しているのか、設計者の一人一人に改めて問いかけたい」 建築家の山本理顕氏の熱い問いかけへの答えを求めて、急遽東京まで出かけてきました。 (冒頭の写真は、シンポジウムの前に訪れた前川國男設計の東京都美術館公募棟のロビーからの眺めで、シンポジウムが行われた建築会館とは関係ありません) 上記シンポジウムの案内リーフレットで、「建築は発注者だけのものではない」と言い切る山本氏の主張には文句なく共感できます。民間建築のみならず公共建築においても、「あまりにも私的に建築がつくられている」と山本氏は警笛をならし、設計者がその専門家としての役割をきちんと果たすべきであると訴えています。自分も微力ながらそう言った問題意識を持って建築設計に取り組んで来たつもりですが、正直なところ、どうにも力及ばずで無力感を感じたり、モヤモヤした気分のまま建築の完成を迎えてしまったりした事があるのも事実です。 設計者は発注者から依頼され、報酬を頂き、発注者が望むものをしっかり咀嚼して形にするのが基本的な役割であり、当然発注者の側もそう言った意識で設計者を選んでいます。これが出来ない設計者には、まず仕事は来ません。 山本氏が敢えて我々設計者に求めるのはその先であって、発注者の基本的な目的-「私的な価値」を達成しながら、合わせていかにその建築に「公的な価値」を付与していくかという事ですが、これが凡庸な建築家(私のことです)にはなかなかハードルが高い。設計者は発注者からの深い信頼を獲得した上で、地域社会や周辺環境といった公の場においてその建築があるべき姿を的確に見出し、それらを懇々と発注者に説くことが出来る力量が必要です。こここそが、まさに専門家としての設計者の本分であると山本氏は語ります。私も出来る限りそうありたいと思っていますが、設計に携わる誰もがそう言った力量を備えているわけではありません。山本氏やこのシンポジウムのパネラーの皆さんのような見識と発信力を持った設計者はむしろ少数派ではないでしょうか。 山本氏も認めるように両者(公と私)は時に対立します。そういった場合、「発注者が報酬を支払って設計者に仕事を依頼する」といういわば主従関係の中では、どうしても「公」より「私」が勝ってしまうのはやむを得ないことでしょう。どのような局面でも発注者におもねることなく、正論で堂々と発注者に立ち向かえる力を持った設計者でなければ、今の状況においては、建築の公共性を充分に担保できないのではないか。その意味で山本氏の問いかけは、ずしりと重く私の胸に響き、はるばる東京まで足を運んでしまった次第です。 残念ながら、私の経験を踏まえて言えば、自治体発注の公共建築においても、発注者側の都合だけで建物がつくられている場合も多々あるように思います。言わんや、民間建築においてはや!です。では果たしてどうすればよいのか。 もちろん設計者がこれまで以上に、真の専門家として研鑽に励むことがまず第一であろうと思います。合わせて発注者側の理解も必要です。しかしながら現在の建築基準法をはじめとする建築についての法制度は、建築が備えるべ必要最小限の事項を定めたものにすぎません。景観法で、建物の意匠や色彩をある程度規制したり、自治体によっては建築確認を出す前に近隣住民への説明を義務付けることで、一定程度行政の裁量を効かせている場合もありますが、決して十分なものとは言えません。 建築の公共性を担保するためには、現状の建築基準法に替わる、より強力な法制度が必要な気がします。シンポジウムのパネラーの中では、法律家の五十嵐氏がそう言った趣旨の発言をされていました。たとえば公共建築の場合は、地域住民とのワークショップを必須のものとして義務づけた上で、その建築がその地域社会の未来にとって相応しいものとなるかどうかを、第三者、あるいは地域住民自身がきちんと検証、評価できるような新たな仕組みをつくる。あるいは現在各自治体が定めている建築確認前の事前協議を、そう言った趣旨から抜本的に見直す。建築の性能や安全性、ごく限られた範囲で周辺環境への影響を検証するだけではなく、時間軸で建築を捉える発想が必要です。建築を作るハードルは著しく上がるけれど、発注者も設計者もそこを避けて通るわけにはいかない状況となれば、否が応でも建築の公共性についての認識も高まるのではないでしょうか。設計者が果たす「未来への責任」に見合うだけの報酬も必要だと思います。 大多数の設計者が建築を創る上での適切な仕組みに沿って、普通に仕事をする中で、ごく自然に、私的な価値だけでなく公的な価値をきちんと備えた建築を未来に渡す事ができるようになれば、地域社会の中で、人と建築の関係はもっと豊かになるでしょう。山本理顕さんが、ここまで頑張らなくてすむような建築界となって(笑)、専門家としての設計者の地位も格段に向上し、建築家を目指す志ある若者がもっともっと増えてくれれば嬉しいのですが。
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2019.01.24
お正月休み利用の伊豆箱根方面のんびり旅。以前から一度訪ねてみたかったポーラ美術館(2002年竣工)です。 年明け早々、優れた建築に出会えて心が洗われる思いでした。何が優れているのか? まずは、美術館という文化的な施設をつくるためとは言え、この箱根の森の豊かな自然に対して人の手を加えるという事の重大性を全ての関係者が共有し、創る過程の様々な場面において熟慮と検討を重ね、環境への影響を最小限にとどめながら、この場所に最もふさわしい美術館を生み出そうとした姿勢と熱意がひしひしと伝わってくるのが素晴らしいと思いました。 次には空間構成の巧みさ。周囲の自然と一体化する中で、素材やプロポーションが周到に計算された開放的で変化に富んだ内部空間は、来訪者は単に美術品を鑑賞するだけではなく、展示室間を移動したり、カフェやロビーで一休みしたり、レストランで食事を楽しんだりする行為全体を通して、普段の日常とは違った唯一無二の高揚した時間を過ごすことが出来ます。様々なガラス素材の高度でディテール巧みな使い方を含め、まさに空間職人とでも言うべき設計者の手による、プロフェッショナルな建築と言えます。 三つめは構造形式の斬新さです。地上高わずか8メートルのこの建物はその大半が地下に位置しますが、建物の外壁は土に接していません。まずは円形のすり鉢状に地下を掘り下げてコンクリートの擁壁を作り、その中に十字形平面の鉄骨造の本体建物が擁壁とは離れて建てられています。擁壁と縁を切ることで、貴重な美術品を地下水や湿気から守り、建物周囲に排水空間が確保されています。また本体建物の基礎部分は地震の影響を受けない免震構造です。将来的に本体建物が老朽化した場合は、周囲の擁壁を残したまま次の世代の建物を建てることが出来るよう構想されたとのことです。 それでは来訪者の視線で順を追って紹介していきます。 道路からはブリッジを通って建物にアプローチします。建物の高さは低く抑えられており、この距離だと、背景の山並みを突出せず控え目にたたずんでいます。
アプローチから建物の中に入ると、大きな木製の自動扉が。この建物で唯一の「閉鎖的」といえるエレメントです。 練り上げられたディテールに、完璧に手入れの行き届いた美しいガラスの壁、天井で囲まれたエントランスです。ガラス越しの山並みのシルエットと真っ青の空、冬の優しい日差しに包まれています。 出入り口のある階は2階。エスカレーターでチケットカウンターのある1階に向かいます。さてこれからどんな空間が待ち受けているのか、期待感が高まります。 エスカレーターで下階へ降りていくと次第に館内の様子が明らかになってきます。1階レベルは左手に美術館のチケットカウンター、右手にはレストランへの出入り口があります。エントランスから続くガラスのトップライトが空間の奥まで伸びて、視線の先にある変化にとんだ内部空間と、ガラス越しの周囲の自然とのコラボレーションが爽快です。 1階のロビーからは吹き抜け越しに、展示室のある地下1階、地下2階までの空間が見渡せます。来訪者は、ダイナミックで特別な空間構成に心を高揚させながら、建物の中で自分が今居る場所をしっかり確認し、さてこれからどう行動するかを思案するのです。この突き抜けた開放感とわかりやすさ。来訪者にいかにして日常を離れた快適な時間を過ごしてもらうか・・この美術館のコンセプトが明快に表現されています。 私達は、レストランは後のお楽しみとして、エスカレーターで展示室のある地下1階に向かいました。展示室ではメインの企画展が開催されていました。この階のロビーに続く森に開いた大きなガラススクリーンのあるカフェは、地下とは思えない光にあふれた空間です。ミュージアムショップより展示室側の光壁をのぞむ
ガラスのトップライトや天井と共に特徴的なエレメントである光壁です。内部に照明を仕込んだこの半透明のガラス壁は地下2階から最上部のトップライトまで貫かれています。横羽目のガラスパネルに対比して内部の照明は縦のラインが強調されています。 地下2階から1階までの3層分を貫く鉄骨柱の断面形状は十字型。あたかも「エンタシスの柱」のように、ゆるやかに中央が太くなっていてエレガントです。地下2階の展示室への出入り口
地下2階から3層吹抜けの上階を見上げる
地下2階は落ちついた空間。各階ロビーの随所に彫刻が配されています
展示室内のPC版製の天井のディテールです。ここにも半端ではないこだわりが感じられます1階のレストランにようやく到着です
レストランから彫刻の庭をのぞむ
宿泊したホテルのモーニングビュッフェを満喫した後で(笑)、尚かつお昼には少し早かったので、同行していた家内といっしょに美術館特製のお洒落なスイーツをいただきました。1階から2階のエントランスへの見返し。3種類のガラスが巧みに使用されています
森と対話しているかのようにも見えるエントランスの彫刻。天気も最高なので、外を散策してみることにしました出来る限り自然のまま残された樹木の合間から、建物が垣間見えます
よく整備された散策路には、さりげなく彫刻が配されています。雪のつもった日や、新緑の頃に、また訪れてみたいと思いました。 本体からせり出した2階のエントランス部分が、アプローチのブリッジにつながっています。 コンクリート製の擁壁で固めた外周部。擁壁と縁を切って、本体の建物が建てられているのがわかります。 地下2階のロビーに置かれていた模型です。この案にたどりつくまで、おそらくたくさんの検討用模型が作成されたことでしょう。 設計担当者の安田幸一氏は、故林昌二氏設計のポーラ五反田ビルにあこがれて、日建設計に入社したそうです。ポーラ五反田ビル 1971年竣工
ポーラ五反田ビルは故林昌二の日建設計での最初の仕事で、以来ポーラ社のオーナであった故鈴木常司氏との長年の交流の中で、このポーラ美術館の基本構想までを手掛けた後、当時アシスタント役であった安田幸一氏に担当を譲られたとのことです。 多くの優れた建築作品を生み出した故林昌二氏が、自ら「格別に意義深い、建築家冥利につきる機会だった」と語る(「NIKKEN SEKKEI LIBRARY-11 ポーラ美術館」より)この美術館が日建設計での最後の仕事となったようですが、ポーラ五反田ビル同様、このポーラ美術館も次世代に伝えていくべき建築の一つであることは間違いがありません。 箱根には多くの美術館がありますが、建築にかかわる者ならば、このポーラ美術館は必見。 この建築に触れた若い世代が、次代を担う建築家に育ってくれる、いやもう育っているかも知れません。カテゴリ:
2018.12.19
10月にあべのハルカスの展覧会を楽しんだ後、たまたま事務所で万博公園内施設の改修工事に係わることになったのを機に、久しぶりに万博公園を訪れ、事前に予約してあった太陽の塔の内部を見学することができました。
塔の周りのランドスケープは綺麗に整備されています
外観は少し汚れが目立ちますが、堂々の大迫力で訪れるものを迎えてくれます
内部のミュージアムへの見学は地下の入り口から入ります(写真中央左の黒い部分が玄関)
ミュージアムのアプローチにある案内版
ミュージアムの中は残念ながら写真撮影禁止となっていました。
入り口の銘板のロゴがちょっといい!
地下の出入り口から、地底の太陽のある展示室に入り、生命の樹を取り囲む階段(かってはエスカレーターでしたが、軽量化のため階段に替えられています)をゆっくりと登りながら、随所でコンパニオンの方の説明を聞くことが出来ました。撮影禁止なので紹介できないのが残念ですが、内部の様子は、前回Blogの「あべのハルカス美術館太陽の塔展覧会」での模型写真などを参照くださいね。 腕の部分まで登ると腕内部の鉄骨製の骨組みがあらわれます。かってはこの腕の中を通ってお祭り広場の上の展示空間にいけるようになっていました。しかしよくぞこんな、まさにべらぼうなものを太郎は考え、この国家的プロジェクトで実現することが出来たものです。 2025年の大阪での万博開催が決定しましたが、さて同じ大阪で今度はどんな万博にすればよいのか・・次の万博は、太陽の塔のような象徴としての「モノ」を中心にすえるのではなく、世界中から万博に参加する(バーチャルでも参加できる?)人々の間で、どのようなアクティビティー(「コト」)を生み出すことが出来るのかを、考えることから始まるのかも知れません。塔の裏側の黒い太陽
前の芝生ではライトアップの準備中
塔の廻りの樹木も塔と調和するように配置されているように見えます
平日にもかかわらず隣接のエキスポシティーは結構な賑わいでした
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2018.10.29
あべのハルカス美術館で開催されている太陽の塔展覧会。本物の太陽の塔はまだ見れていませんが、9月14日から始まったこの展覧会も早、終盤に。何とか時間をつくって駆け足で訪れましたが、展示内容は想像以上に力の入ったもので、たいへん刺激的な時間を過ごしました。写真撮影OKというのも嬉しい! 高校生の時に見たお祭り広場の光景はおぼろげながら記憶に残っていますが、当時太陽の塔の中に入ったことはなく、内部の展示の様子や、塔の両腕の部分がお祭り広場の屋根の展示空間につながっていた事などは全く分かっていませんでした。 会場に展示されていた精巧な模型を眺めていると、丹下健三設計のシステマティックな屋根を突き破って屹立する「ベラボーな」塔の奇怪な造形に込められた、岡本太郎の熱い情念に圧倒されます。 当時の地下空間の展示を再現したジオラマはどれも精巧で実に美しいもので、思わず近寄って、しばし見入ってしまいました。 太陽の塔の内部を説明する模型。生命の進化を表す「生命の樹」のディテ-ル、そのまわりを上昇してゆく階段(当時はエスカレーター)などが照明効果と共に分かりやすく表現されています。 下の写真は、この展覧会の目玉とも言うべき、初代「黄金の顔」の実物展示。仮設の足場の上から真近に眺めることが出来ます。修復後はステンレス板にスコッチフィルムを貼って作り直されていますが、展示されていたのは当時の鉄板製のもの。荒々しい手作りの造形の生々しさ、そのスケールの巨大さに驚かされます。施工中の現場写真も合わせて展示されていました。 当時、建設に際してデザインや技術的な検討を行う為に製作されたマケット(模型)の一つです。私の岡本太郎のイメージは「体育会系アーテイスト」。ランニング姿でエネルギッシュに太陽の塔の石膏原型を製作する岡本太郎のヴィネットが背後に見えます。結構リアルです! 両手を前に出して近寄るなと言っているかのような「ノン」(フランス語でノー)と名づけられた岡本太郎の作品。地下展示ゾーンに置かれていたそうです。世界から集められた仮面や神像が並ぶ展示空間に溶け込んでいたことでしょう。西欧のモダニズム(近代主義)やその裏返しとしての「日本調」の伝統主義にノーを突きつけ、万博を契機として、独自の新しいモノ(太陽の塔がその際たるモノですが)を想像しようとする岡本太郎の強靭な意志が伝わってきます。 岡本太郎最後の作品「雷神」。1960年代の作品が並ぶコーナーの一角に展示されていました。署名が無いので未完とされています。まるで絵心のあるやんちゃな子供が思うがままに描いたような若々しくエネルギッシュな作品です。 万博閉幕後行方不明となったままの「地底の太陽」ですが、塔の内部の修復と再生を機に復元され、ここではその原形が展示されていますが、ちょっと綺麗にまとまり過ぎた感も。
平日でも盛況の会場の様子。老若男女が興味津々です
カラフルな岡本太郎の作品が並ぶ会場の導入部分
48年の歳月を経て蘇った太陽の塔や、今日の日本や世界の状況を見て、岡本太郎は何を思うのでしょうか
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2018.08.27
小樽芸術村のもう一つの建物である「旧高橋倉庫」はステンドグラス美術館となっています。外壁は石造り、内部は木造という小樽に特徴的な建築の壁面一杯に、バックに照明を仕込んだきらびやかな色彩のステンドグラスが、展示されています。中央に吹き抜けを挟んだ空間構成で、様々な角度から作品を楽しめる様工夫が為されています。 観光客でにぎあう堺町通りは、小樽を代表するクラフト製品のお店が並んでいます。中でも硝子製品を販売する「北一硝子」は小樽を代表する老舗で、様々な種類の硝子製品を扱う複数の店舗と合わせ、美術館やカフェも開設しています。朝一番で「北一硝子3号館」にあるカフェ・レストラン「北一ホール」に立ち寄ると、早くも順番待ちの行列が出来ていました。 行列に並んだおかげで、開店前の一時、店内に167個ある!石油ランプ一つ一つに点灯する様子を見ることができました。お店の基本の灯りはこの石油ランプだけ!。100年以上も前、石油ランプ一つから北一硝子の歴史が始まったそうです。石油ランプの温かい灯りに満たされる窓の無いダイナミックな木造架構の空間。ちょっと懐かしい感じがする石油のほのかな匂いが漂う中、壁面一杯にディスプレーされたガラス製品や、正面の世界地図のオブジェを眺めながら、家内と二人、朝のスイーツを楽しみました。 さて、この日は積丹半島1周の絶景ドライブに出かける予定でしたが、生憎の雨模様。予定を変更して、余市の「ニッカウヰスキー余市蒸留所」を見学することにしました。
広大な敷地、豊かな自然の中にゆったりと各施設が配置されています
小さなとんがり屋根が連なる醗酵棟の建物
適切な火力を保ちながら石炭をくべるために熟練の職人技が必要になる、今では世界でも希少な「石炭直火蒸溜」が採用されている単式蒸溜器(ポットスチル)。上部の注連飾りに注目
手作りの樽の中でウイスキーを熟成させる貯蔵庫の一つはウイスキー博物館となっています。
貯蔵庫の奥行きは50M
NHKドラマの「マッサン」でお馴染みニッカウヰスキー創業者竹鶴政孝の愛妻の家「リタハウス」
余市蒸溜所の正門を敷地内から見たところ
ウヰスキーの製造工程の見学と、試飲等も出来る蒸溜所ガイドツアーが30分毎に実施されていました。何と90分のガイドツアーが無料。私たちの班は、ニッカウヰスキーの今年の新入社員で研修中という初々しい女性が案内してくれましたが、研修中とは言え、なかなかどうしてどうしてその名ガイドぶりに感心することしきり。創業者の夢と情熱を受け継ぎ、本物のモルトウヰスキーづくりの過程とその奥深い魅力を、訪れる人々にきちんと伝えようとする熱意に感じ入りながら、たいへん興味深い時間を過ごしました。運転手のため試飲が味わえなかったのが残念!!カテゴリ:
2018.08.24
明治後期から昭和初期にかけての小樽港大繁栄の時代に次々と建てられた欧風意匠の建築群。誰が名づけたのか「北のウォール街」と呼ばれるエリアです。
日銀通りと呼ばれる道沿い、明治45年(1912年)竣工の「旧日本銀行小樽支店」を筆頭に銀行建築が建ち並びます。
これぞ「旧日本銀行小樽支店」。現在は金融資料館になっています
こちらは小樽バインというワインのお店が入る「旧北海道銀行本店」
「旧三井銀行小樽支店」は「小樽芸術村」の建物のひとつとして内部が公開されています
「小樽芸術村」は北海道で生まれ育った㈱ニトリホールディング(家具のニトリ)の似鳥昭雄会長が開設。「旧北海道拓殖銀行小樽支店」、「旧三井銀行小樽支店」、「旧高橋倉庫」、「旧荒田倉庫」の4棟を利用してそれぞれの建物にその時代を彩ってきた日本や世界の美術品、工芸品が展示公開されています。。「旧北海道拓殖銀行小樽支店」は「似鳥美術館」とアールヌーボーとアールデコそれぞれの時代のグラス作品や家具が展示されている「アールヌーボー・アールデコグラスギャラリー」があり、なかなかに見応えのある施設に生まれ変わっていました。「似鳥美術館」の一角に展示されていた岡本太郎氏の作品。左側の4点は
「座ることを拒否する椅子」
「旧三井銀行小樽支店」は銀行時代の営業室がリニューアルして公開されており、一部の部屋では浮世絵展が催されていました。日本が欧風建築の意匠を取り入れて建てた建築空間で、逆に日本発で世界のアートに大きな影響を与えた浮世絵の展示というのも面白い企画ですね。 この建物は地上2階建て(地下1階)ですが営業室全体がほぼ2層吹き抜けとなっている贅沢なつくりです。2層吹き抜けの天井を利用してのプロジェクションマッピング。映像が刻々と入れ替わり幻想的な雰囲気です
地下にある金庫室の出入り口。堅牢なつくりの扉が大迫力です
(続く)
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2018.08.21
お盆休みは酷暑の大阪を脱出し、一昨年に引き続き再び北海道へ!一昨年は高校から大学まで一緒の相棒Y君と、愛車ハーレーダビッドソンに跨り、北海道一周3,000キロの駆け足ツーリングを敢行したのですが、今回は妻とゆっくりレンタカーでのんびり熟年旅行です。その中でも一番印象深かった小樽の街の様子を追々紹介していきます。 かって明治後期から昭和初期にかけて北日本有数の貿易港として栄えた小樽。海を埋立てて一部の海面を残して築造した「小樽運河」。運河に面して建ち並ぶかっての倉庫群は外観は当時のままで、内部は店舗などにコンバージョン。改めて運河の一部を埋めたてて遊歩道が整備され、夜間はガス灯の幻想的な光で水面に映えるレトロな建築群が浮かび上がります。 海運、銀行、商社等一流企業の支店が建ち並び、かっての街の興隆ぶりを今に伝える「北のウォール街」の一つ一つが個性的なモダン建築群。これらの建物も内部は、資料館や美術館、博物館、レストラン、観光案内所などとして再生されています。 そして、オルゴールやガラス製品、有名店のスイーツ等、小樽ならではのショップがお目当ての観光客で大賑わいの「堺町通」。 古き良き繁栄の時代の遺産を見事にリニューアルして再生し、小規模ながらその独特の街としての魅力で世界中から観光客を集め続ける小樽の街は、スクラップ&ビルドではない「歴史を次世代に繋げていく」まちづくりの先駆的事例であり、成熟した日本の文化を感じさせてくれます。
小さな遊覧船に乗り込み40分の小樽運河ナイトクルーズです
ブリッジの下をくぐって、遊覧船はしばし小樽港方面へ向かいます
かって小樽港に着いた船から運河沿いの倉庫まで物資を運んだ「艀-はしけ」が残っていました
遊歩道の無い北側の運河は当時のままの巾で残っています。明るい灯火は現役のイカ釣り船
淡い灯りの中、当時のままの姿で浮かびあがるのは「北海製罐小樽工場倉庫」
遊覧船に乗り込む前に降りだした雨も何時しかあがり、爽やかな海風を感じながらの40分のクルーズは小樽観光の定番コース。 案内役のガイドさんの説明に耳を傾け、河岸で運河を眺める人々やすれ違う遊覧船に手を振りながら、刻々と移り変わる眼前の風景を楽しむ満員の船内は、あちこちで子供のような歓声に満ちていました!! かっての鉄道の線路がそのまま残っている「旧手宮線」沿いの遊歩道に沿ってしばらく歩くと、なにやらどこかで見たことのあるようなモダン建築が現れました。昭和27年に小樽地方貯金局として建てられた建物を活用した市立小樽文学館・市立小樽美術館です。この建築のことを少し調べて見ると、設計は当時の郵政省建築部長だった小阪秀雄氏で、その後の「日本の公共建築の基本形」となったと言われているそうです。昭和28年生まれの私ですが、この建物を人目見たとき感じたデジャブ(既視感)の理由が分かったような気がしました。外壁の一部が汚れたまま無造作に建っていますが、昭和の小樽を代表するモダニズム建築です。階段室の大きなガラス窓は、当時としては思い切りモダンに感じられたことでしょう
高く伸びたシャフトに階段が取り付く妻側ファサードは美しいプロポーションです
内部からの階段越しの眺め。スウェーデン芸術祭が開催中でした。
(続く)
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2018.03.12
お正月の休みを利用して、四国松山を旅しました。遅ればせながらのご報告です。道後温泉で有名な松山は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」で描かれた正岡子規と松山兄弟が生まれ育ち、また「坊ちゃん」の著者である夏目漱石が松山中学校の英語教師として赴任していた地でもあります。松山市では、彼らゆかりの施設や場所を整備し、それらを有効活用しながらのまちづくりが進められています。その中心となるのが、平成19年に開館した「坂の上の雲ミュージアム」です。 上に行くほどせりあがったガラスのカーテンウォールが特徴的な外観。建物の平面は三角形なのですが、外から一見しただけではそうとは分かりません。恥ずかしながら、実は私、この建物の設計者が誰であるかを知らずに訪れたのですが、ファサードを見上げた第一印象は、どこか大手の組織設計事務所の若手が少し気合を入れて設計したのかな?くらいに思っていました。
露地状のアプローチを見返す
玄関は入ってすぐのホール
少し傾いた塀とガラスの手摺に挟まれた露地状のアプローチを通ってホールに入ると、上部にスロープと空中階段を大胆に配し、傾斜したコンクリート打放しの壁面に挟まれた吹き抜け空間が現れます。 最上部のスリット状のトップライトからは引き締まった光が降り注いでいます。 これはひょっとして・・・そうです。安藤忠雄さんの設計でした。上階へ向かうスロープ。奥に見える階段は主として下階へと降りていく時に使われます
来訪者は、3角形の平面の外周に配されたスロープを歩きながら、それにつながる各展示室を巡るようになっています。3Fから4Fへ向かうスロープの壁面には、産経新聞に連載されていた「坂の上の雲」
の紙面が、びっしりと並べられています。
建物の構成を、言葉で説明するのは中々難しいので、以下にパンフレットのコピーを掲載しておきます。 2階には書籍が閲覧できるライブラリーラウンジやミュージアムカフェ、3階から4階にかけて、3つの展示室があり、それぞれのテーマで「坂の上の雲」の世界が表現されています。「坂の上の雲」で描かれた時代背景を紹介する最も開放的な3階「展示室1」
右側の壁面に沿って、緩やかに上ってゆくスロープが見えます
展示室1のカーテンウオール越しに見える洋館は、同じ敷地内にある「萬翆荘」bansuisou 。
旧松山藩士の子孫である久松伯爵の別邸として建築。国重要文化財に指定されているそうです
変化に富んだ建築空間を体験しながら、スロープ(坂道)を主とした回遊動線をゆっくりとたどり、それぞれ趣向を凝らした展示空間で、各々のテーマごとに「坂の上の雲」の世界を楽しめるようになっています。写真でも分かるように、展示室の面積に比して、吹き抜けやスロープ、空中階段などを含む共用空間に充分なゆとりがあり、建物全体が安藤流ミュージアムといえます。 帰りぎわにインフォメーションカウンター付近に立ち寄ると、サイン入り色紙が2枚飾ってあったので、誰のものなのか係の方に訊ねると、一人は竹下景子さん、もう一人は隈研吾さんですよ、と嬉しそうに教えてくれました。2枚の内の1枚が隈さんのサイン入色紙とは少し意外でしたが、新国立競技場のコンペに勝って一挙に知名度アップされたのかも知れません。建築と関係のないプライベートな友人に、たとえば槇文彦さんや伊東豊雄さんといった私が尊敬する建築家の話をしたくて尋ねてみても、残念ながらその名を知らないことがほとんどで、寂しい思いをすることがあります。日本での建築家の社会的な認知度はまだまだ低い (それはもちろん建築家側の責任ですが)・・・そんな中で、竹下景子さんと並ぶ隈研吾さんの色紙を見て、少し嬉しく思いました。カテゴリ:
2017.11.28
2017年11月18日から12月3日まで行われている平等院のライトアップ。平成の大修理後はじめての夜間特別拝観で、境内の紅葉と国宝・鳳凰堂が鮮やかに浮かびあがります。つたない写真ではありますが、荘厳な雰囲気を少しでも感じていただければ幸いです。
18時の拝観開始を待って黒山の人だかり
池越しに望む幻想的な鳳凰堂全景
中央に鎮座する阿弥陀如来坐像が鮮やかに浮かび上がります
側面、池にかかる橋越しに望むちょっと現実離れした風景です
池に映りこむ橋の優美なシルエット
ライトアップされた紅葉の向こうは「ミュージアム鳳翔館」
少しだけ拝観者が少なくなった帰路で、ゆっくりと紅葉が楽しめました
おまけですが、すぐそばにあるスターバックス。こちらの庭園も見ごたえ充分。
庭園につながる店内からの眺めも素敵でした