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2017.11.28
2017年11月18日から12月3日まで行われている平等院のライトアップ。平成の大修理後はじめての夜間特別拝観で、境内の紅葉と国宝・鳳凰堂が鮮やかに浮かびあがります。つたない写真ではありますが、荘厳な雰囲気を少しでも感じていただければ幸いです。
18時の拝観開始を待って黒山の人だかり
池越しに望む幻想的な鳳凰堂全景
中央に鎮座する阿弥陀如来坐像が鮮やかに浮かび上がります
側面、池にかかる橋越しに望むちょっと現実離れした風景です
池に映りこむ橋の優美なシルエット
ライトアップされた紅葉の向こうは「ミュージアム鳳翔館」
少しだけ拝観者が少なくなった帰路で、ゆっくりと紅葉が楽しめました
おまけですが、すぐそばにあるスターバックス。こちらの庭園も見ごたえ充分。
庭園につながる店内からの眺めも素敵でした
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2017.11.16
孫の七五三のお祝いで名古屋に出向いたついでに、翌日岐阜まで足を伸ばし、伊藤豊雄さんの近作である「みんなの森 ぎふメディアコスモス」を訪れました。 「みんなの森 ぎふメディアコスモス」は、1階に市民活動交流センター・多文化交流プラザ等のコミュニティー施設と展示ギャラリー、2階は市立中央図書館からなる複合施設です。 以前に紹介した「仙台メディアテ-ク」と同様、設計コンペティションで伊藤豊雄さんの事務所が設計者に選ばれました。 1階の模型コーナーでは、隣接して建設される予定の岐阜市新庁舎の模型が一緒に展示されていました。調べてみると、新庁舎の方は伊藤さんの設計ではないようで、曲線を使った柔らかい印象ではありますが、模型を見る限り、比較的オーソドックスな庁舎のように見受けられました。 「みんなの森 ぎふメディアコスモス」は平面的にはシンプルな矩形の2階建ですが、2階部分の屋根には、多数の大きさのちがう「こぶ」のようなものが、まるで何かが湧き出たように、ぼこぼこと盛り上がっているのが分かります。
1階エントランスホール。写真中央左側に2階図書館へ上がるエスカレーターが見える。
天上からふりそそぐ光に導かれて2階へと登るエスカレーターとエレベーター
2階図書館の木で組まれたうねる天井。華奢なサイズの鉄骨柱が荷重を支えています
1階に展示されている2階天井木組みのモックアップ。ファブリックのような軽やかな架構です。薄い木材が層状(3層)に組まれているのがわかります。木材は岐阜県産の「東濃ヒノキ」 模型で見た屋根の盛り上がりの正体は「グローブ」と呼ばれる空間。トップライトのある頂上部から、光を通すファブリックで作られた大きな傘のようなものが、いくつもぶら下がっています。「グローブ」の下はそれぞれテーマや役割を与えられていて、利用者は「グローブ」の間を自由に移動しながら、思い思いに好きな時間を過ごすことが出来ます。よく見るとファブリックの模様は「グローブ」ごとに全て異なっているのが分かります。大きなグローブに囲まれてゆっくり読書が出来る場所。
「ゆったりグローブ」と命名されていました。
図書館全体は一つの街のようなオープン空間ですが、その中に「グローブ」でゆるやかに分節された小さな空間が用意され各々に機能が与えられています。閲覧スペースとなっているグローブでは、それを取り囲むようにグローブの役割に関連した書架が放射状に配置されています。来訪者は、大きな空間の中で自分の好みの居場所が見つけやすく、グローブの傘の下に身を置くと、適度な囲われ感の中で、上部からの拡散した穏やかな光や緩やかな空気の流れ、かすかな天井材の木の香りなどを感じながら、実に気持ちのよい時間を過ごすことが出来るのです。 うねる天井と頂部が盛り上がったグローブの形状にはちゃんとした理由があって、館内の空気の循環をスムーズにする目的があるようです。グローブの頂部には換気口があり、夏はこの換気口を開いて熱い空気を外に排出し、冬場は閉じて暖かい空気を逃がさずに館内で循環させるようになっているとの事。この当たりは、自然エネルギーを出来るだけ効率的に利用し一次消費エネルギーを削減するために、高度なシュミレーションが繰りかえされたであろうと推察します。 「光や風などの自然そのものをデザインに取り込みたい」とは、伊藤氏の最近の著書 「「建築」で日本を変える」―集英社新書 の中での言葉です。 あるべき空間の明快なコンセプトと、それを形にするための発想の新鮮さ、そしてそれを可能にする確かな技術力が合わさって始めて可能になる空間に感銘を受けました。 最近の建築雑誌の記事によれば、上記の木組み天井と屋根との間の空気層に水分が溜まり、図書室内への水漏れが発生しているそうです。空気層の中のグラスウールの水分が結露したと考えられること、また複雑な屋根形状のため手作業で屋根鋼板を施工した箇所に漏水が認められたこと、などが原因とされています。現時点では、屋根上に送風機を設けて、空気層の部分に風を送り込むことで改善されてきているとの事です。 やはり前例の無い新しいことに挑戦すると、想定外の事態が起きることもあるのでしょう。雨漏りは決して許されることではないですが、この木組みのうねる天井が、これだけ快適でユニークな空間を生み出すことに成功しているのですから、運営に携わる皆さんも市民の皆さんも、あまり目くじらをたてずに、どうか寛大な眼で見守っていって欲しい...建物を造る側の人間として、勝手ながらそう思いました。カテゴリ:
2017.10.31
竹橋にある東京国立近代美術館で、平成29年10月29日まで開催された展覧会「日本の家-1945年以後の建築と暮らし」。日本建築家56組による75件の住宅建築が、時系列ではなくテーマ(系譜)ごとの展示になっています。ローマ、ロンドンでも開催され、好評だった本展が最後に東京にやってきました。 メデイアでもそのユニークな内容が度々紹介されており、これは見逃せんな!ということで、急遽いそいそと東京まで出向きました。 東京メトロ東西線の竹橋の駅をおりると、近代建築の名作「パレスサイドビル」が目に飛び込んできます。白い円形のコア部分と黒っぽいオフィス部分との対比が鮮やかです。 美術館は皇居に近い北の丸公園にあり、道路をはさんですぐ向かいには石垣に囲まれたお堀があり、江戸城跡もすぐそばです。お堀の向こうには高層ビル群が望めて、まさにこれぞ東京!というロケーションです。 東京国立近代美術館は、谷口吉郎氏の設計ですが、2001年に坂倉建築研究所による増改築、2012年には開館60周年を向かえ、大規模なリニューアルが行われたそうです。本館の外観は、谷口氏らしい端正なモダニズム建築ですが、両妻側にすこし突き出して設けられた壁が、日本家屋の「うだつ」を連想させてくれます。正面のボックスが浮いたような横長のプロポーションと、その中にバランスよく配された開口部がスマートで格好いいですね。 展示は、1.イントロダクションから始まり、2.日本的なるもの、3.プロトタイプと大量生産、4.土のようなコンクリート、5.住宅は芸術である、6.閉鎖から開放へ、7.遊戯性、8.感覚的な空間、9.町家:まちをつくる家、10.すきまの再構築、11.さまざまな軽さ、12.脱市場経済、13.新しい土着:暮らしのエコロジー、14.家族を批評する、という13のテーマに分けて展示されています。時系列ではないので、同じテーマに新旧建築家の作品が並んでいたりします。建築の展覧会によくある作品主義、作家主義的な展示ではなく、住宅という万人に身近な建築を、様々な多角的視点から掘り下げて考察しようとする企画者の姿勢に共感できました。 注目すべきは、いくつかの住まい手のインタビュービデオが上映されていたことです。設計者の手を離れた後の、実際に住まう人の言葉を聞くことが出来るのは貴重な機会であり、人それぞれの住まいについての考え方に感銘を受けました。 ローマ、ロンドン、東京各都市で人気を博したのもうなづけます。 そして、展示の目玉はなんと言っても清家清氏設計の「斎藤助教授の家 1952年」の原寸大模型でしょう。今は取り壊されているこの住宅の竣工時の資料や解体前に撮影された写真などを参考に、建築の主要な部分がほぼそのまま、実物大で再現されています。私の生まれる1年前(65年前です!)に建てられたこの小住宅ですが、なんとモダンで伸びやかなことでしょう。 縁側、居間、食事室、和室が一体につながり、南面には巾9メートルを越える開口部が設けられています。障子を閉めると一転心地よい内部空間に。キャスターのついた可動式の畳や、一部が両面から使える居間と食事室を仕切るキャビネット(これは原物との事です!)などの仕掛けが楽しいですね。 当時の写真をよく見ると、建物の左の方の基礎がなく建物の一部が宙に浮いているように見えます。いわゆるキャンティレバーという構造形式ですが、既に建っていた住宅の基礎をそのまま利用してこの住宅が造られたそうなのです。コストを抑えるためか、記憶を繋げるためなのか、あるいは作者の遊び心なのかは定かではありませんが、いずれにせよ、地面からいくらも離れていない基礎部分でこの技を使うとは、なかなかユニークな発想だと思いました。 この原寸模型のおかげもあり、期間終了間際のこの展覧会は結構な盛況です。すぐ下の写真で、原寸模型の正面両側に青い色の壁が見えますが、ここに雨戸が納まっており、この雨戸の後ろの壁が、この住宅の9メートルを越える開口部を可能にするための耐震壁の役割を果たしています。
以下は、特に印象に残った住宅を紹介します。
白の家1966-篠原一男
「住宅は芸術である」の言葉で有名な篠原一男の作品。壁面一杯の写真がまるでその場に居るような気分にさせてくれました。中央の丸柱が象徴的です。 同じ作者の作品であるコンクリート住宅である「上原通りの住宅1976」に住む施主のインタビュービデオが上映されていました。「篠原先生はとても物腰のやわらかい女性的な人」「設計中の先生との会話はとても少なかった」「居間に立ちはだかる斜めの柱を邪魔だと思ったことはない」などのお話が印象的でした。中野本町の家1976-伊東豊雄
いまや日本を代表する建築家である伊東豊雄氏の初期住宅作品。円環状の空間が中庭を囲んで流動的につながっています。テーマは8.感覚的な空間の中の一品です。スカイハウス1958-菊竹清訓
大学の大大先輩でもある菊竹清訓氏の30歳の時の作品。4つの壁柱で主室(夫婦二人のためのワンルーム)が空中(2階)に持ち上げられています。「ムーブネット」と名付けられたキッチンや水廻り、収納は移動可能で、家具の配置と合わせて自在に空間構成ができるようになっています。この模型は、なんと主室の下に子供部屋がぶら下げられています。あくまで主室は夫婦のための空間というコンセプト。ここでのテーマは、14.家族を批評する。T-House2005-藤本壮介
右側のダイアグラムと模型とを並べてみました。扉の無い部屋が重なってつながる平屋の住宅です。家族は4人とのことですが、各部屋にはしっかりと役割が与えられ、壁の片面は白いペンキ仕上げ、その裏側は木の素地仕上げとなっています。各々の居場所からどんな景色が見えるのか体験してみたくなります。そしてどこに居ても、近くても遠くても、見えても見えなくても、家族の気配が感じられることでしょう。開拓者の家1986-石山修武
コルゲートパイプで出来たこの家は、設計者から送られてくる図面を基に、施主がほぼ自力で施工したというから驚きです。インタビュービデオにも登場しているこの施主は建築が専門ではなく農業を営んでいるそうです。しかも1976年の24歳の時につくり始めて以来、今日まで40年に亘って手を入れ続けているとの事。テーマは12.脱市場経済。天神山のアトリエ2011-生物建築舎
これはガラス屋根で覆われたコンクリートの箱で出来たワンルーム。居住スペースもあることはあるが、ほとんどは設計事務所のオフィスとして使われています。土間は土のままのようであり、室内に大きなユーカリの樹が植えられています。作品のそばでは、ひたすらこの場所での時の移ろいを淡たんと写したビデオが静かに上映されていて、思わず見入ってしまいました。おおらかにあるがままの自然を受容する家。 月並みな言い方をすれば。住宅は建築設計の原点です。大学の設計実習でも住宅は一番最初の課題でした。この展覧会に登場している建築家で言うと、当時建築学科の講師をされていた石山修武氏の指導を受けたことがあります。当時バンド活動に熱中していた私は、課題の作成に十分な時間をとることが出来ずに、しかたなく泥縄でおざなりな案を提出し、しどろもどろになりながらも何とかとりつくろって石山氏の前で説明したところ(一人一人が石山氏の前で自案のコンセプトを説明する授業でした)、石山氏は私の欺瞞をすぐに見抜かれたのでしょう、ほとんどコメントらしいコメントもしてもらえず、恥ずかしい思いをした記憶がよみがえります。 本展のテーマ4.土地のようなコンクリート で紹介されている東孝光氏の「搭の家」は、その頃、青山辺りで遊んだついでに何度か立ち寄って前からしげしげと眺め、あの荒々しいコンクリートの肌合いと、東京のど真ん中6坪の土地で何としても都市にすまうんだというその強靭な意志に感銘を受けたものでした。後年、大阪出身の東氏は「大阪市ハウジングデザイン賞」の審査員をされていたことがあり、私の設計した作品をいくつか見ていただく機会がありました。1997年に賞をいただいたRE-SOUL清水谷の審査の折には、当時雑誌で紹介されていた東氏の事務所のデスクレイアウトを参考にした私の事務所にも立ち寄っていただきました。その折はゆっくりとお話する時間もなく「では田中さん、またあらためて!」と言い残し、急いで次の審査に向かわれたのですが、以後お会いすることが出来なかったことが残念でなりません。 少し話がそれましたが、日本の建築家は住宅の設計からそのキャリアをスタートさせることが多いようです。私の場合も独立して最初の仕事が住宅でした。当時の私はクライアントの要望を形にすることに必死でしたが、建築家の姿勢次第では、住宅設計を通じて、家族のあり方、時代や社会、環境との関わり方、あるいは新しい素材や構法等について、ラディカルな提案を行うことも可能であり、そのためにはクライアントとの対話を繰り返して、住まいについての考え方をしっかりと共有することができるか、あるいは、とにかく始めからクライアントの全幅の信頼を得た上で設計をスタートさせるか、のどちらかが必要だと思います。大雑把に言うと、設計実績の少ないうちは前者、ある程度実績が出来てくると後者かと思いますが、そういった志の高い建築家の思いが詰まった住宅が、本展で特徴的なテーマごとに取り上げられているというわけです。 もちろん住宅への住まい手の思いは切実ですから、住宅設計を手掛けるには私達にもそれなりの覚悟が必要です。「クライアントの思いに負けず」に、「クライアント以上に考えなくてはいけない(プロの目で)」のです。だからこそ住宅設計はたいへんですしやりがいもある。住宅設計を通して、これからの「住まい」や「建築」の本質を見出した中から、先進的な考え方を提示することが出来れば、設計者冥利につきるというものです。もちろん「クライアントファースト」であることは忘れずに。カテゴリ:
2017.09.30
平成25年、還暦同窓会開催を期に始まった高津高校OBのゴルフコンペ「KOZU虹の会」。平成29年9月24日(日)で、早第9回目を迎えました。 今回も24期生の精鋭20名が、奈良の飛鳥CCに集結。 歳はとっても若い頃のゴルフが忘れられず、たまに出る(笑)豪快なティーショットに喜びを見出すメンバー、少々飛距離は落ちても正確なショットと円熟の小技を駆使してスコアメイクに励む「上がって何ぼ」組、スコアはさておき、とにかく皆とわいわい楽しむことに徹しているらしいメンバー、週に3日仕事が休みの日はほぼコースに出ているというゴルフ求道者まで、様々な個性的面々が、いつものように楽しい時間を過ごしました。 前々回よりコンペ形式は、独自の「虹の回ルール」としています。 「虹の回ルール」とは、12の隠しホールのスコアを基にハンディーキャップを算出して、順位を決めるダブルペリア方式ではありますが、隠しホールかのスコアから算出されるハンディーキャップ計算時に、八掛けをせずそのままの数字を採用、さらにハンディーキャップの上限も何と55までかさ上げして、誰もが優勝を狙える形式となっています。 たとえば、グロスで120叩いたとしてもうまくハンディーキャップがはまって50ともなれば、ネット70で充分に優勝を狙えるというわけです。ゴルフに一家言ある人からすると、たぶんひんしゅくを買いそうなルールではありますが、ホールアウト後のスコアを眺めてみても、果たして誰が優勝するか全く予想がつかないこの珍ルールを皆で楽しんでいます。 今回はと言うと、ベストグロスでホールアウトしたメンバーが、隠しホールもうまく味方につけて、何とネットスコア65で見事優勝。やはりこの「虹の回ルール」、蓋を開けてみなければわかりません。 そんなわけで、優勝者とBB賞、2名の幹事も決まり、次回の日取りをとりあえず決めて散会。 さて記念すべき次回第10回大会は、果たしてどんなドラマが待っているのか、今からわくわくです。 参加の皆さんご苦労さんでした!
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2017.08.24
お盆休みを利用した東北旅行で、かねてから行ってみたかった伊藤豊雄氏設計の仙台メディアテークを、ようやく訪れることが出来ました。 東日本大震災で打撃を受けた内装も復旧されており、お盆休みの最中の土曜日でしたが、仙台市民の皆さんが気軽に立ち寄れる図書館やアートギャラリーなどを含む複合的公共施設として、朝から賑わっていました。
1階ロビー越に仙台市のメインスストリート定禅寺通りのけやき並木が望めます。
何と言っても特徴的なのは構造形式です。一見するところ柱も梁も見当たりません。柱の役割を果たしているのは、白い鋼管トラスでつくったチューブ状の独立シャフトです。平面的にアットランダムな位置に合計13本が配置されていて、チューブの中身はエレベーターや階段、設備シャフト等、各階を縦につなげる用途としてそれぞれが利用されています。チューブの最上部からは空からの光が降り注ぐという斬新な構造体です。 床はと言うと、梁の無い鉄骨フラットスラブ(ハニカムスラブ)というもので、鋼板のサンドイッチ構造となっているので、フラットな天井が伸びやかに広がっています。 このまるで樹木のようなチューブ状のシャフトとフラットな天井の他には、壁や仕切り等はほとんど無い空間。それは、伊藤豊雄氏の言葉を借りれば、「公園のように、自分の好きな場所を選んで自由に過ごすことが出来る空間」です。チューブの中の黒い部分は設備シャフトとなっています。
1階ロビーにあるカフェスペース。中央が盛り上がったテーブルがユニークです。
このチューブの中には階段が納められています。
2階~4階は仙台市民図書館となっており、開館前からたくさんの市民の皆さんが列をつくっていました。写真撮影に興じていると、昨年の富山のキラリに引き続き、ここでも図書館の係りの方に呼び止められ、1階の受付で写真撮影の許可を受けてくださいとの事。急いで1階の受付まで降りて、カウンター内の女性に「すみません。写真撮影の許可をいただけますか~。実はもうたくさん撮っちゃったんですけどねぇ・・」と御願いすると、女性は私をとがめることもなく、ただ「アッハッハッハ~」と高笑いしながら、注意事項を書いた紙と撮影許可のバッチを手渡してくれました。富山のキラリに比べてずいぶんと大らかな対応に、昨年同様少しだけムッとしかけていた気持ちが和らぎ(笑)、以後は心置きなく撮影に励むことが出来ました。(もちろん一般の方々に不快感を与えるような撮り方はしていませんので念のため)フラットな天井と白いチューブの空間に開架式の本棚が並ぶ様は圧巻。
天井から吊り下げられた照明器具が天井を照らし、柔らかな光に満たされます。
こちらはエレベーターのあるチューブの出入り口。
この建物で唯一の原色である、チューブを囲む家具の鮮やかな赤が眼に飛び込んできます。
外周は透明な皮膜で覆われています。
1階へと下るエスカレーター。正面ガラスの向こうには定禅寺通りが見えます。
これ以上ないくらいに明快なコンセプトと、それを可能にする確かな技術力。このユニークな構造設計を担当したのは佐々木睦朗さんという構造家。構造設計者はあまり表に出ることは少ないのですが、この建築での佐々木氏の役割はとても大きくて、建築を創り上げていく上で、意匠と構造の理想的なコラボレーションがここに実現していると言えます。 コンペで選ばれたこのメディアテークですが、当初はクライアントである仙台市に理解してもらうのはたいへんだったようです。チューブ状の柱はフロアの邪魔になる、効率が悪いなどとずいぶん非難されたとの事。ところが工事が進んで建築が形になり始めると、役所の方も施工会社も反応が変わってきて、「今まで見たことのない新しいものを自分たちはつくっているんだ」という自負心が生まれ、つくることを共有できるようになったそうです。つまり建築はコミュニケーションの場を提供するのではなく、建築をつくることそのものがコミュニケーションであり、そこにコミュニケーション空間があるのだ(PHP新書:日本語の建築-伊藤豊雄著-より)と伊藤氏は述べています。 特に東日本大震災を経験した以後の設計作業で、自主的にワークショップ等を開催するなどして、その建築に関わる地域の皆さんの意見に耳を傾け、垣根の無いコミュニケーションの中から、みんなで一緒に建築を創り上げていくことに意義を見出そうとする伊藤建築の原点が、この仙台メディアテークにあるように思いました。カテゴリ:
2017.08.23
http://digital.asahi.com/articles/DA3S13070906.html?rm=150#Continuation かねてより世間を騒がしている森友学園、加計学園問題。平成29年8月4日付朝日新聞に掲載された保守の論客、佐伯啓思氏の論説「異論のススメ」が興味深かったので紹介します。 内容を要約すれば ・今回の安倍政権の支持率急落の原因の半分は、森共学園、加計学園問題であり、これらの問題に関するメディアの扱いは異常とも言える過剰なものであった。 ・メディアは文化省の内部メールを持ち出しこれを「事実」として官邸が文科省に圧力をかけたのだといい、そうでなければ「ない」という事実を出せ、出せないのは「安倍首相のお友達」の便宜をはかろうとしたからではないか、というような報道を繰り返しているうちに内閣支持率が急落した。 ・メディアは政府側が説明できないのは「事実」を隠蔽しているからだというが、無謀な論理である。安倍首相が加計学園の便宜をはかり圧力をかけたといった「事実」は出るはずもないし、仮にそれを事実をあげて説明しろと言っても、「口利き」や「圧力」がその証拠など残すはずはないから、所詮無理なことである。 ・現状ではこの問題についての確かな「事実」など何処にも無く、メディアが安倍首相の個人的事情によって行政をゆがめたとするのは、「事実」とは言えない「推測」にすぎない。 ・メディアの報道は「事実」をめぐる検証の体をとりながら、実は「事実」など信用してはおらず、ただそれ(筆者- keibun 註:「仮想の事実」とでも言うべきか?)を利用しているだけであり、実際には「疑惑の安倍政権」というイメージを醸成する一種の「世論」操作のように見える。 ・政権への批判をすることは言論を通した権力闘争である民主政治においては、当然のことであるが、その批判は前述のような不確かな「事実」を巡る駆け引きをする事ではなく、安倍首相の世界観や現状認識、それに基づく政策にこそ向かうべきである。加計学園の問題にしても、少し掘り下げれば、構造改革の是非や官邸主導政治の是非という問題にたどり着くはずである。 以上のように「もりかけ問題」に関するメディアの報道姿勢に、痛烈な批判を浴びせた論説となっています。 まあ、一言で言ってしまえば、加計も森友も日本国家にしてみれば大した問題ではないんだから、メディアは政権批判をするのなら、怪しげな「事実」をふりかざしてつまらない駆け引きなどせずに、もっと真正面から堂々と目線の高いテーマで論戦を挑むべきである、と言う事でしょうか。 それにしても、このような論説を掲載している朝日新聞も、ずいぶんと懐が深くなったものです。 佐伯氏の意見は、確かに「異論」というよりは(朝日新聞から見れば「異論」か・・)正論であるとは思いますが、私はこの「もりかけ問題」というのは、もっとシンプルな話だと思っています。 「事実」には確固たる証拠を伴うものと、直接的にそれを示すものは無いにしても、人の頭で普通に考えてどう見てもそうであろうという「確かな推論」に基づくものとがあると思います。森友問題での土地払い下げにあたっての大幅ダンピングはどう考えても不自然ですし、戦略特区構想を通して、加計学園が優遇されてきたのではないか・・と国民が疑ってみたくなるのも、これまでの経緯を見ればごくごく当然の事でしょう。 仮に安倍首相側の圧力なり役人側の忖度があったとしても、それらは確かに天下国家を揺るがすような問題ではないかもしれない。しかしながら、この問題での、都合の悪いことは記録にない、記憶にない、調査をしたけど当時の資料は廃棄されていて確かめようがない、といった政府側のお粗末で見え透いた答弁を聞いていると、これが我が国を動かしている人たちの発言なのか、と情けない気持ちになります。野党側が求める国会の再開催や証人喚問なども、政権は拒否し続けています。 そして、今の安倍一強政権下では、たとえばもっと国民の生活に大きな影響を及ぼす事柄においても、ひょっとしたら、本件と同様に政権側に都合の悪い事はひたすら隠蔽されるような事態になってしまうのではないか・・という危惧を国民は(先の戦争の経験等から)じわじわと感じ始めていて、その事が今回 の政権への不信感がここまで広がった一番の原因のように私には思えます。 破棄されたというデジタルデータの資料は技術的に復元できるはずですし、森共学園の土地がダンピングされた経緯は、その気にさえなれば、特捜部の捜査で明らかにされることと思います。そのきっかけを作ったのはやはりメディアの功績でしょう。 「推測」が「事実」に限りなく 近づくために、個人的には、メディアや野党にはもっともっと頑張って欲しいと思っています。
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2017.07.20
2001年に開館した安藤忠雄氏設計の司馬遼太郎記念館。近くまで行く機会があったので、ぶらりと立ち寄って来ました。 東大阪の住宅地にある司馬氏の居宅が保存され、隣接した敷地に新しいコンクリート打放しの記念館と駐車場が整備されています。入り口の自動券売機で入場券を購入して敷地の中に入ると、係りの方から虫除けのうちわを手渡され、雑木林のような庭を進むと、司馬氏が亡くなった当時のままの書斎がガラス窓も通してのぞめるようになっています。 居宅には司馬氏が執筆の参考にした6万冊の書籍がそのまま保管されているそうで、書斎の奥にその一部を垣間見ることができます。6万冊です!半端な数ではないですね。 庭をさらに進み、ゆるやかな曲線を描くガラスのスクリーンと打放し壁に囲まれたアプローチをたどると記念館の玄関に至ります。まあここは安藤建築(というよりモダニズム建築)の定番マテリアルで、鉄とガラスとコンクリートの単純明快な空間に自然の緑が映えてます。狭いアプローチを歩いていると硬質な素材に囲まれているせいか、同行した家内との会話が妙に響くのが気になりましたが、これも入館の前に来訪者の意識をリセットする演出なのかも知れません(考えすぎか(笑))。 さてさて館内に入ると、膨大な本の壁に囲まれた地下階を含む3層吹き抜けの空間が目に飛び込んできます。これは圧巻。どきもを抜かれました。ここには2万冊の書籍が収まっているそうですが、本物の本は全て居宅の方に保管されているため、居宅にあるのと同じ本を2万冊、展示用として新たに用意したらしい!!本は眺めるだけで手に取ることは出来ません。吹抜け空間の奥には、ステンドガラス(といっても色はついていない)がはめ込まれています。ここでロビーで購入できる記念誌の中にある安藤氏の言葉を少し紹介しておきましょう。 「司馬さんが背負ってきた蔵書に囲まれた暗闇に、ステンドガラスを通してかすかな光が入り込んでくる、この空間で、司馬文学を生み出した作家の精神世界を表したかった。司馬さんは、行く先の見えない戦後日本の闇に、先人の偉業を通してこぼれおちるかすかな光を見出しながら、人々に希望を与えてきた。ステンドガラスには、大きさと形、そしてその表情の全てが異なるガラスがはめ込まれている。その不揃いのガラスは、日本人一人一人の、個人の持つ力を最後まで信じていた司馬さんの思いに応えるものであり、それを通して室内に差し込む不揃いの光は、司馬さんが求め、探し続けてきた人々の夢と希望を象徴するものである」 司馬さんやこの記念館に寄せる建築家の熱い思いが伝わってくる文章ですね。安藤さんなりに解釈した司馬さんの思想や業績が、たいへんシンプルでわかりやすいコンセプトで建築空間として具現されています。しかし、膨大な蔵書に裏付けられた司馬さんの業績を表現するのに、司馬さん自身の所有物ではないとは言え、貴重な本を展示物(ディスプレー)のように扱うことにはおそらく賛否両論があるかも知れません。「暗闇に・・・かすかな光」というには、結構ステンドガラスの面積が大きく、かなりの量の光が降り注ぐので、歳月を経るごとに大事な本たちも日焼けで変色していくことでしょう。しかしながらそういった負の側面を差し引いても、この空間は、正に安藤流の直球勝負で、有無を言わさず、訪れる人の心にダイレクトに訴えかけてくる強烈な力を有しています。 上の写真は窓際のステンドガラスと本の壁で囲まれた空間を見上げたものですが、コンクリート打放しの天井の右下の方に、人の顔型の黒ずんだ沁みがあるのがわかるでしょうか?館側の説明によれば、この沁みは司馬さんの「竜馬がいく」の主人公坂本竜馬が天井からのぞいているのだそうで、思わずしげしげと見上げてしまいました。 展示ホールには司馬さん自筆の原稿などを納めた展示ケースが置かれており、また地下にはビデオ上映や講演会が出来る小ホールがありますが、司馬遼太郎記念館は、これら建築空間自体が展示作品であり、そこにしばし身を置いて司馬さんの世界に触れる中で、人それぞれが自分なりに思索を深めることが出来る場所なんだろうと感じました。 若輩の私が言うのもたいへん失礼ではありますが、やはり安藤建築はこのぐらいのスケールの小品がいいです。
側面の道路からガラスのファサードを見る
地下へおりる階段室がアールの壁面から突出しています
植栽越しに階段室の前のドライエリアを望む
通用口のある敷地の裏側。周辺の住宅地のスケールから突出せず建っています
この建物の兄弟分というか、続編というべきか、安藤建築の新作「子供本の森中之島」探訪記を当blogにアップしていますので、併せてご覧ください。
http://tk-souken.co.jp/blog/6189/カテゴリ:
2017.05.26
母校の高津高校が2018年に創立100周年を迎えるため、様々な記念行事が企画されていますが、母校体育館に2017年5月14日にジャズピアニストの大塚善章氏を招き、記念コンサートが開催されました。 1934年生まれの大塚善章さんは高津高校の卒業生で、何と高校在学中に母校の校歌を作曲したという人物で、83歳になった今でも現役のジャズピアニスト・作曲家・音楽プロデューサーとして、幅広い活躍をされています。 今回は、大塚善章さんのジャズクインテットの演奏に加え、母校在校生のアンサンブル部、及び吹奏楽部とのコラボレーションが実現しました。 クインテットの演奏の中でも、大塚善章さん作曲の壮大なピアノコンチェルト「上町台地2004」は故郷大阪への想いを謳いあげる感動的な楽曲でした。 そして、そのクインテットの円熟のステージは元より、関西ジャズ界の重鎮と夢の競演、という又と無い機会を与えられ、一生懸命練習を重ねてこの日を迎えたであろう在校生諸君の熱演にも心に響くものがありました。 今後、この経験を糧に、在校生の中から大塚さんの背中を追いかけるようなビッグなミュージシャンが育ってくれれば嬉しいものです。 素晴らしい企画を実現していただいた記念事業実行委員会の皆様に感謝、感謝です。
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2017.04.27
心無い一言で先日辞任を余儀なくされた復興大臣の発言を逆手にとって、沢山の東北の皆さんが、SNS等を通して「♯東北でよかった」というタグと共に、自分だちの身近な題材を取り上げて東北の良さを発信しています。 閣僚の失言や失態が相次ぎ苦々しい気分になってしまう昨今ですが、久しぶりにすがすがしい気持ちにさせられます。東北の人たちの前向きなたくましさと、ウィットに富んだ知的な批判精神に感銘を受けますね。 何気ない日常の中で、自分たちを取り巻く環境の中から、美しいものや、楽しいこと、心温まること等々・・「よいこと」を心を開いて見出していこうという気持ちが、人の心を豊かにもするし、「よいこと」を分かち合うことで、同じ地域に住まう人々の絆を深めるのだと感じました。 ともすれば自分の周囲に、不平や不満を見つけようとしてしまう自分自身への反省を込めて。
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2016.12.14
授賞式に出席しなかったボブ・ディランが授賞式後の晩餐会に向けたメッセージを寄せました。 米国大使が代読するという異例の事態でした。 何故自ら出席して、自らの口から語らなかったのか? 楽曲(楽曲と一体である自らの詞を含む)を作り続け、歌い続けたことに対して、ノーベル文学賞が授与されたという事実を、(戸惑っていることはよく伝わりますが)本音のところではどのように受けとめているのか? 聞く人によって色々な捉え方があると思いますので、 今回は、私の個人的な感想は封印して、以下にその全文を掲載しておきます。 皆さん、こんばんは。スウェーデン・アカデミーのメンバーとご来賓の皆さまにご挨拶申し上げます。 本日は出席できず残念に思います。しかし私の気持ちは皆さまと共にあり、この栄誉ある賞を受賞できることはとても光栄です。ノーベル文学賞が私に授与されることなど、夢にも思っていませんでした。私は幼い頃から、(ラドヤード)キップリング、(バーナード)ショー、トーマス・マン、パール・バック、アルベール・カミュ、(アーネスト)ヘミングウェイなど素晴らしい作家の作品に触れ、夢中になってのめり込みました。いつも深い感銘を与えてくれる文学の巨匠の作品は、学校の授業で取り上げられ、世界中の図書室に並び、賞賛されています。それらの偉大な人々と共に私が名を連ねることは、言葉では言い表せないほど光栄なことです。 その文学の巨匠たちが自ら「ノーベル賞を受賞したい」と思っていたかどうかはわかりませんが、本や詩や脚本を書く人は誰でも、心のどこかでは密かな夢を抱いていると思います。それは心のとても深い所にあるため、自分自身でも気づかないかもしれません。 ノーベル文学賞を貰えるチャンスは誰にでもある、といっても、それは月面に降り立つぐらいのわずかな確率でしかないのです。実際、私が生まれた前後数年間は、ノーベル文学賞の対象者がいませんでした。私はとても貴重な人たちの仲間入りをすることができたと言えます。 ノーベル賞受賞の知らせを受けた時、私はツアーに出ている最中でした。そして暫くの間、私は状況をよく飲み込めませんでした。その時私の頭に浮かんだのは、偉大なる文学の巨匠ウィリアム・シェイクスピアでした。彼は自分自身のことを劇作家だと考え、「自分は文学作品を書いている」という意識はなかったはずです。彼の言葉は舞台上で表現するためのものでした。つまり読みものではなく語られるものです。彼がハムレットを執筆中は、「ふさわしい配役は? 舞台演出は? デンマークが舞台でよいのだろうか?」などさまざまな考えが頭に浮かんだと思います。もちろん、彼にはクリエイティヴなヴィジョンと大いなる志がまず念頭にあったのは間違いないでしょうが、同時に「資金は足りているか? スポンサーのためのよい席は用意できているか? (舞台で使う)人間の頭蓋骨はどこで手配しようか?」といったもっと現実的な問題も抱えていたと思います。それでも「自分のやっていることは文学か否か」という自問はシェイクスピアの中には微塵もなかったと言えるでしょう。 ティーンエイジャーで曲を書き始めた頃や、その後名前が売れ始めた頃でさえ、「自分の曲は喫茶店かバーで流れる程度のもので、あわよくばカーネギー・ホールやロンドン・パラディアムで演奏されるようになればいいな」、という程度の希望しか持っていませんでした。もしも私がもっと大胆な野望を抱いていたなら、「アルバムを制作して、ラジオでオンエアされるようになりたい」と思っていたでしょう。それが私の考えうる最も大きな栄誉でした。レコードを作ってラジオで自分の曲が流された時、それは大観衆の前に立ち、自分のやり始めたことを続けられるという夢に近づいた瞬間でした。 そうして私は自分のやり始めたことを、ここまで長きに渡って続けてきました。何枚ものレコードを作り、世界中で何千回ものコンサートを行いました。しかし何をするにしても常に中心にあるのは私の楽曲です。多種多様な文化の多くの人々の間で私の作品が生き続けていると思うと、感謝の気持ちでいっぱいです。 ぜひお伝えしておきたいことがあります。ミュージシャンとして私は5万人の前でプレイしたこともありますが、50人の前でプレイする方がもっと難しいのです。5万人の観衆はひとつの人格として扱うことができますが、50人の場合はそうはいきません。個々人が独立したアイデンティティを持ち、自分自身の世界を持ち、こちらの物事に向き合う態度や才能の高さ低さを見抜かれてしまうのです。ノーベル委員会が少人数で構成されている意義を、私はよく理解できます。 私もシェイクスピアのようにクリエイティヴな試みを追求しながらも、「この曲にはどのミュージシャンが合っているか? レコーディングはこのスタジオでいいのか? この曲はこのキーでいいのか?」などという、避けて通れぬ人生のあらゆる俗的な問題と向き合っています。400年経っても変わらないものはあるのです。 「私の楽曲は文学なのか?」と何度も自問しました。 この難題に時間をかけて取り組み、最終的に素晴らしい結論を導き出してくれたスウェーデン・アカデミーに本当に感謝しています。 ありがとうございました。 ボブ・ディラン