カテゴリ:
2017.07.20
2001年に開館した安藤忠雄氏設計の司馬遼太郎記念館。近くまで行く機会があったので、ぶらりと立ち寄って来ました。 東大阪の住宅地にある司馬氏の居宅が保存され、隣接した敷地に新しいコンクリート打放しの記念館と駐車場が整備されています。入り口の自動券売機で入場券を購入して敷地の中に入ると、係りの方から虫除けのうちわを手渡され、雑木林のような庭を進むと、司馬氏が亡くなった当時のままの書斎がガラス窓も通してのぞめるようになっています。 居宅には司馬氏が執筆の参考にした6万冊の書籍がそのまま保管されているそうで、書斎の奥にその一部を垣間見ることができます。6万冊です!半端な数ではないですね。 庭をさらに進み、ゆるやかな曲線を描くガラスのスクリーンと打放し壁に囲まれたアプローチをたどると記念館の玄関に至ります。まあここは安藤建築(というよりモダニズム建築)の定番マテリアルで、鉄とガラスとコンクリートの単純明快な空間に自然の緑が映えてます。狭いアプローチを歩いていると硬質な素材に囲まれているせいか、同行した家内との会話が妙に響くのが気になりましたが、これも入館の前に来訪者の意識をリセットする演出なのかも知れません(考えすぎか(笑))。 さてさて館内に入ると、膨大な本の壁に囲まれた地下階を含む3層吹き抜けの空間が目に飛び込んできます。これは圧巻。どきもを抜かれました。ここには2万冊の書籍が収まっているそうですが、本物の本は全て居宅の方に保管されているため、居宅にあるのと同じ本を2万冊、展示用として新たに用意したらしい!!本は眺めるだけで手に取ることは出来ません。吹抜け空間の奥には、ステンドガラス(といっても色はついていない)がはめ込まれています。ここでロビーで購入できる記念誌の中にある安藤氏の言葉を少し紹介しておきましょう。 「司馬さんが背負ってきた蔵書に囲まれた暗闇に、ステンドガラスを通してかすかな光が入り込んでくる、この空間で、司馬文学を生み出した作家の精神世界を表したかった。司馬さんは、行く先の見えない戦後日本の闇に、先人の偉業を通してこぼれおちるかすかな光を見出しながら、人々に希望を与えてきた。ステンドガラスには、大きさと形、そしてその表情の全てが異なるガラスがはめ込まれている。その不揃いのガラスは、日本人一人一人の、個人の持つ力を最後まで信じていた司馬さんの思いに応えるものであり、それを通して室内に差し込む不揃いの光は、司馬さんが求め、探し続けてきた人々の夢と希望を象徴するものである」 司馬さんやこの記念館に寄せる建築家の熱い思いが伝わってくる文章ですね。安藤さんなりに解釈した司馬さんの思想や業績が、たいへんシンプルでわかりやすいコンセプトで建築空間として具現されています。しかし、膨大な蔵書に裏付けられた司馬さんの業績を表現するのに、司馬さん自身の所有物ではないとは言え、貴重な本を展示物(ディスプレー)のように扱うことにはおそらく賛否両論があるかも知れません。「暗闇に・・・かすかな光」というには、結構ステンドガラスの面積が大きく、かなりの量の光が降り注ぐので、歳月を経るごとに大事な本たちも日焼けで変色していくことでしょう。しかしながらそういった負の側面を差し引いても、この空間は、正に安藤流の直球勝負で、有無を言わさず、訪れる人の心にダイレクトに訴えかけてくる強烈な力を有しています。 上の写真は窓際のステンドガラスと本の壁で囲まれた空間を見上げたものですが、コンクリート打放しの天井の右下の方に、人の顔型の黒ずんだ沁みがあるのがわかるでしょうか?館側の説明によれば、この沁みは司馬さんの「竜馬がいく」の主人公坂本竜馬が天井からのぞいているのだそうで、思わずしげしげと見上げてしまいました。 展示ホールには司馬さん自筆の原稿などを納めた展示ケースが置かれており、また地下にはビデオ上映や講演会が出来る小ホールがありますが、司馬遼太郎記念館は、これら建築空間自体が展示作品であり、そこにしばし身を置いて司馬さんの世界に触れる中で、人それぞれが自分なりに思索を深めることが出来る場所なんだろうと感じました。 若輩の私が言うのもたいへん失礼ではありますが、やはり安藤建築はこのぐらいのスケールの小品がいいです。
側面の道路からガラスのファサードを見る
地下へおりる階段室がアールの壁面から突出しています
植栽越しに階段室の前のドライエリアを望む
通用口のある敷地の裏側。周辺の住宅地のスケールから突出せず建っています
この建物の兄弟分というか、続編というべきか、安藤建築の新作「子供本の森中之島」探訪記を当blogにアップしていますので、併せてご覧ください。
http://tk-souken.co.jp/blog/6189/カテゴリ:
2016.11.29
W.M.ヴオーリズの設計で、昭和12年に竣工した豊郷小学校旧校舎群。 一時は新校舎建設によって取り壊しの危機に瀕しましたが、永年地域で愛されきた校舎を惜しむ声からの保存運動の結果、平成20年から大規模改修が施され、現在は地域の教育・福祉の拠点として活用されています。 見学も自由に出来るので、11月の休日、湖東三山の紅葉見物のついでに、ぶらりと訪ねて見ました。 上の写真は、玄関を入ってすぐの展示室(旧職員室)に置かれている竣工当時の全体模型です。外観の基本はシンメトリーで、当時のモダニズムの手法を取り入れたものですが、外壁のレリーフや出入り口廻り等の控えめな装飾が、ヴオーリズらしい優しさと温かみを感じさせてくれます。 鯉の噴水のある円形の池を中心とした前庭も、建物と調和したモダンで格調のあるものですが、この造園の設計は、日本で最初のランドスケープアーキテクトとされる戸野琢磨氏の手になるとの事です。 この時代、しかも地方の一小学校建築に、建築と造園各々の第一人者によるコラボレーションが実現している事に感銘を受けます。建設当時「白亜の教育殿堂」、「東洋一の小学校」などと称されたと言われる威風堂々の外観をしばし眺めていると、この小学校出身の寄贈者である古川鉄次郎氏(当時の丸紅専務)の郷土への愛情と教育への熱い思いが伝わってくるようです。 1階の廊下は一直線にのびて100メートルもあります。床は南洋材のアピトンのフローリング貼。教室への出入り口は引戸ではなく、木製の片開きのドアで、床には開けたときの軌跡が描かれています。木製3段の跳ね上げ式の窓も、とてもモダンな設えですが、最上段は廊下側に、下2段は教室側に開くようになっていて、当時、元気よく廊下を走り回ったであろう児童達にぶつからないように配慮されています。 特徴的なのは、ユーモラスな階段の意匠です。手摺や壁面は、柔らかい曲線を用いてデザインされていて、手すりには、うさぎと亀の像が。そう!イソップ童話の物語を元にデザインされているのです。 一つ前の写真は、よーいドンでスタートするところ。手すりの途中には、油断して眠っているうさぎや、コツコツと着実に歩んで最後には勝利する亀の姿が配されています (上の写真) 。 児童が、階段の手すりを滑り台がわりにして遊ばない ( 昔よくやりましたね! ) ような配慮もあったのかも知れません。 上の2枚の写真は、建物の両ウィングの内、向かって右側にある講堂です。現在も卒業式に使われているとのことですが、とてもシンプルで明快な意匠です。 特徴的なのは、両サイドに並ぶ5段の縦長窓。窓下の穴にハンドルを差し込んで、5段の窓全てが一度に開けるようになっていたようですが、当時としては珍しい仕掛けだったのではないでしょうか。 (現在は最上部が火災時に自動で開くようになっているとの事ですが、一部の窓は当時の機構のまま復元されています) 80年にも及ぶ時を経る中で、大切にメンテナンスが施され、何代もの記憶を繋ぎながら、今なおバリバリの現役として使い続けられている…その空間がこうして常時一般にも公開されているのは素晴らしいことです。 上の写真はウイングの左側にある酬徳記念館。当時は酬徳記念図書館として一般開放されていたそうです。 手摺や梁部分の意匠に工夫がなされていて、旧校舎群の建物の中では最も装飾的な空間となっています。現在は、観光案内所やギャラリーなどに利用されています。 尚、私はまったく知りませんでしたが、この校舎群は、ア二メの舞台としても有名だそうで、そのアニメに関連した展示が沢山あり、建築や教育に関心のある人のみならず、アニメの聖地としても多数に親しまれているのが分かりました。
校舎の廊下から庭園を望む
カテゴリ:
2016.10.05
築地市場から移転予定の豊洲市場。建物の下に盛り土がされていなかった問題について、連日メディアを賑わしています。 専門家会議で、土壌汚染対策として、敷地全体に盛り土をすることになっていたのにもかかわらず、建物の下には盛り土がなく、実は巨大な地下空間が広がっていました。 ところがこの事実が、移転する当時者を含めてまったくこれまで説明されておらず、小池知事になってから突然に判明。 誰がいつどのようにして、この専門家会議での方針を反故にする決定を下したのか・・の犯人探しは、超巨大組織の都庁であるが故に難航しているようです。 「建物の下に盛り土がなく、ピット空間が・・・」 この話を聞いたとき私は、実はそれほど驚いたわけでは無く、そして正直これほどの騒ぎになるとは思いませんでした。 さてその理由は・・・・ ◆建物のない敷地全体の7割は、当然盛り土がされています。 ◆土壌汚染対策としては、厚さ10センチ以上のコンクリートがあれば、盛り土の替わりになるとされていますが、この地下空間と地上階との間には30センチ~40センチのコンクリートスラブが打設されているようです。 ◆豊洲市場のような巨大なスケールの建物であれば、当然基礎もそこそこのボリュームになります。そして、建物の下部には、通常は設備配管の設置が必要で、土を埋め戻してしまうとこれら配管のメンテナンスが出来ませんから、ある程度のピット空間はどうしても必要となります。 ◆入れ替えがなされていない盛り土より下の地層についても、汚染対策処置がされているようですが、都の説明によれば、将来の地下水の変動等によって新たに有害物質が生じないかどうかを、調査する必要があり、そのためのモニタリング空間としてこの巨大な地下空間を設けたとのことです。つまり、ピット空間の床にはあえてコンクリートを打たずに、いつでも地下水の状況を調査することができるようにしておき、万が一有害物質が確認されれば、場合によっては重機を巨大な地上のマシンハッチからこの空間に搬入して、さらなる土壌汚染対策工事を施すというわけです。 ◆ピット内に生じた地下水を処理するための排水システムも用意されているようですので、このシステムが本格稼動すれば、現在大騒ぎになっているピットの床にたまった地下水もなくなるでしょう。 さて、どうでしょうか。 本来、技術的には問題解決の方法はいくつかあるはずなのに、マスコミの少々片寄った報道のせいもあって、専門家会議で提言された「盛り土をする」以外の方法は認められない!!といった風潮に現状では傾いているようです。 確かに都がこれまで説明責任を充分に果たしていなかった事は大きな問題だと思いますが、上記の点を技術的な観点から総合的に判断すれば、この地下空間を設けたこと自体、むしろ合理的で妥当な判断だったように思えます。 そういった意味で、おそらく建物の設計に実際に携わった担当者からしても、建物の下に盛り土をする代わりにモニタリング用の地下空間を設けることに、将来にわたっての土壌汚染対策上、意義があると考え、むしろ確信を持って設計を進めたのではないでしょうか。ただ敷地の一部であるにせよ「盛り土をしない」という選択は、一般の素人の目には、極めて大きな変更と映りますから、やはり「盛り土をしない」という決定をした時点で、都はしっかりと公表して関係者に説明するべきだったと思います。それがその時点できちんと為されていれば、今日のような大騒ぎにはならなかったでしょう。 いずれにせよ、この巨費を投じた豊洲市場がマスコミの過剰な報道によって、風評被害といった状況に陥ってしまうのは困ったことですから、設計にあたった都の建築責任者は、これまで説明が不足していたことを真摯に詫びた上で、設計事務所ともよく協議をして、現状の設計になった経緯と理由を、自信を持ってきちんと説明する場を設けるべきです。 もちろん、現状のピット空間で採取される地下水やピット空間自体に基準値を超えるような有害物質が含まれていないことを、充分に調査しきった上で、現実的には安全性に問題ないことを証明してからであることは言うまでもありません。 しかしながら、もし今後環境アセスメントの一からのやり直しが必要で、たとえ結論に変わりはないとしても、その作業に相応の期間が必要であるとなれば、その点においては、やはり進め方がずさんだったと言わざるを得ないでしょう。問題が発覚しなければ、果たしてどうするつもりだったのか?ということですね。 ただしかし、この問題に関してのマスコミの報道姿勢は、先にも書いたように、技術的検証を欠いたまま、「盛り土をしなかったのは悪いことだ」とばかりに決めつけて、その責任を追求する論調が目立ちます。いかに一般市民がマスコミの影響を受けやすいかを思えば、これはかなり問題だと思いますが、このような総合的で技術的な判断を伴う建築・土木の諸問題、一般市民(報道する側のマスコミも含めて)が容易に理解するのは、なかなか難しいでしょう。マスコミはどうしてもセンセーショナルな論調の方に傾きがちです。 この豊洲盛り土問題、都側の当事者の側からすれば、一度このような形で世に不信の念を抱かせてしまうと、今後は、よほど丁寧に真摯に説明しない限り、中々信頼を回復するのは難しいかも知れませんね。 そこで、我々第三者の専門家の側としては、この問題を適切な技術的観点からきちんと検証した上ではありますが、マスコミの報道が偏ったものであればそれをしっかりと正し、少なくとも豊洲のピット空間が、建物の下に盛り土をするのと同等もしくはそれ以上の効果がある事を、予断を排して、誰もが理解出来る様に丁寧にわかりやすく説明を尽くす責任があるのかも知れません。
カテゴリ:
2016.08.22
3つ目の建物は、この小旅行の最終日、閉館間際の夕刻に訪ねた「鈴木大拙館」。 ニューヨーク近代美術館など、多くの優れた美術館建築を設計している谷口吉生氏の作品です。 谷口吉生さんは私の大好きな建築家の一人です。 どの作品も、設計コンセプト、空間構成、素材の選択、ディテール、どれをとっても完璧に隙が無いくらい考えぬかれています。決して奇をてらったり大袈裟なことはせず、あくまでも作品の洗練度を高めることに注力する職人的なこだわりの積み重ねの結果に生まれる空間は、極限まで研ぎ澄まされていて、どこをとっても凛とした風格を漂わせています。 ですので、その作品を目にするといつもしゃきっと背筋が伸びて気が引き締まり、自分ももっと頑張らねば・・という気にさせられるのです。
アルミルーバーで覆われた簡素な、建物へのアプローチ
右は「玄関の庭」。左は「展示空間」に至る内部回廊
もちろん、この「鈴木大拙館」も例外ではありませんでした。 「鈴木大拙館」は、世界的な仏教哲学者である鈴木大拙の生涯に学び、その思想に出会う場所として、金沢市生まれの鈴木大拙の生家の近くにひっそりと建っています。館内は、鈴木大拙を知る「展示空間」、鈴木大拙の心や思想を学ぶ「学習空間」、それぞれ自らが考える「思索空間」の3つの空間で構成されています。玄関を入るとまずクスノキのある「玄関の庭」が見え、次に光がコントロールされた長い内部回廊を経て、「展示空間」に至ります。右側の独立した建物が「思索空間」棟
右側が「思索空間」に至る外部回廊。正面の石張りの壁の向こうが「展示空間」
「展示空間」に隣接した「学習空間」は「露地の庭」が望める落ち着いた空間です。来訪者はこの「学習空間」から風除室を通り外部に出て、「水鏡の庭」に面した外部回廊を歩きながら池に浮かんでいるかのような「思索空間」にアプローチしていきます。この外部回廊は、先の内部回廊と一枚の壁で仕切られていて、対照的な往路(内部)と復路(外部)が表裏一体となっているところが、この平面計画のポイントでしょう。隣地の緑に映える端正な建築。水面のかすかな揺らぎが静けさを感じさせてくれる
「思索空間」の開口部は、絞りこまれた美しいプロポーション
この建物の中で大きな面積を占める「水鏡の庭」は、時に移ろいゆく水面から鈴木大拙の精神である「静か」「自由」を表現したとの事です(作者注)。独立した一棟である「思索空間」はこの建物の核となる正方形平面の空間。90センチ画の束立ての畳を自由に組み合わせることで、思索、語らい、茶会などの利用が想定され、三方に穿たれた開口からは、それぞれの池越しの静かで落ち着いた空間を垣間見ることが出来ます。ここは時を忘れていつまでも座っていたくなる場所で、まさに「鈴木大拙館」の精神を象徴する空間となっています。 以下はこの作品が掲載されいる「新建築」という雑誌に作者が寄せた文章です。アプローチ側にある建物の銘板
「建築交流ネットワーク協定の締結」を記した銘板
上の最後の写真は、谷口吉生氏が設計した美術館や博物館が連携して「建築交流ネットワーク協定」締結したことを記した銘板で、氏の「質の高い意匠」を共通の特色として認識し、相互に連携して振興を図ることに同意したとされています。 これまで氏が設計した建物のクライアント(管理運営者)全てが氏の設計した建物に敬意を表し、これからも大切に使っていきましょうね!と誓っている・・ まさに建築家冥利につきるこの銘板に、羨望と感動を覚えました。カテゴリ:
2016.08.21
次に金沢で訪ねたのは、「金沢21世紀美術館」。 私は開館間もない頃に訪れて以来2度目でしたが、今や旅のガイドブック等にも大きく取り上げられ、金沢の新名所となった感のあるこの建物は、たいへんな賑わい。一般的な美術館と比べて若い人が多いように思いました。 建物はシンプルな円形平面で、外は思い切り開放的なガラススクリーンで覆われています。これだけ開かれた美術館はあまり前例がありません。内部も、いくつかの展示スペースが中庭や光の入る回廊をはさんで、分散して配置されていて、迷路のようです。迷路といっても決して閉鎖的ではなく、ごく近くにあって視覚的にはつながっていても、動線的にはぐるりと回っていかないとその場所に行けない・・といったシチュエーションがいくつか用意されていて、展示だけではなく、内部を歩きまわる過程そのものを楽しめる美術館といえます。街中で、ウィンドウショッピングをしている感覚に近いような気がしました。 外部の遊具などが設置された広場に面したロビーには、誰でも気軽に入って思い思いにくつろぐ事が出来、併設されているカフェも開放的です。建物自体では決して主張せず、ただアートを鑑賞するというだけではなく、この場で生じる様々なアクティビティの可能性を広げる事に主眼が置かれているようでした。 ただ一部に汚れが目立つ庇のない大きなガラススクリーンのメンテナンスや、猛暑の午後に西日を浴びて一時的に高温になっているロビーがついつい気になってしまうのは、小心な建築家の哀しい性かも知れません(笑)。
カテゴリ:
2016.08.20
夏休みを利用して北陸の旅。富山から能登半島経由で金沢への今度は車でのドライブ旅行です。 どうしても職業柄、建築が気になります。 まず一つ目は富山市内で、RIA・隈研吾・三四五 設計JVの「TOYAMAキラリ」を訪れました。 外観は、ガラスとアルミに石材という地元富山の素材を組合わせて、「キラキラ」させようとしたとの事ですが、時間帯にもよるのかも知れないけど、少し饒舌な印象で、正直あまり美しいとは感じませんでした。「高級な素材をつぎはぎして作った贅沢なバラックのよう」と言ったらちょっと言い過ぎでしょうか。これだけのファサードは決して半端な費用では出来ないでしょうから、富山市民の皆さんの評価を聞いてみたいと思いました。 内部は、銀行とガラス美術館、図書館やカフェなどが複合したもので、建物の中央を斜めの吹き抜けが貫き、それらの用途を含む内部空間全体が大きな一体的空間となっています。火災時等に吹き抜け部分を区画する防火戸やシャッターなどが一切ありません。これは全館「避難安全検証」により可能になったものとの事ですが、これほどまでの縦に重層した空間を一体的に扱った事例は珍しく、1階から最上部のトップライトまでが一気に見渡せる中、各階のエスカレーターがセットバックしながら上階へと登っていく様はなかなかの迫力です。柱や壁の随所が鏡貼り(実際はステンレス鏡面仕上げ?)になっていることも、空間の一体感と視界的な広がりを演出しています。 おしむらくは、斜めの吹き抜け空間に沿って配された冨山産杉材の木製ルーバーが、外観と同様やや煩雑な印象を与えてしまっているのが少し気になりました。このルーバーで斜めの吹き抜けを強調したとの事ですが、逆にこのルーバーがなければ、もう少しこの空間全体がすっきり見えたかも知れません。確かにこのルーバーがなければ「斜めの吹き抜け(光の筒)になっている」ということが、一瞥してわかりにくいかも知れませんが…しかしわざわざその事を感じさせる(説明する)必要があるのかどうか?この建物の空間自体のプロポーションや光の入り方を目にすることで、訪れる個々人が自然にこの空間を受け止めればそれでよいのではないか?という気もしました。 しかしまあここらは好みなのかも知れません。地元産の素材を積極的に用いて木の暖かさを表現し、トップライトから斜めにふりそそぐ光が木漏れ日のような空間を創る(作者談)という設計者のコンセプトは、素直に評価すべきなのかも知れません。 ところで、写真撮影が禁止ではないということで、家内と写真撮影に興じていると、係りの方から2度注意を受けました。 一回目は、展示室の中で、コンパクトな伸縮式の簡易な20センチほどの三脚付きのカメラを持っていると、「三脚は展示を見る人の妨げになるので、はずしてください」と。三脚は、短くたたんでそこを掴めば持ちやすいのでカメラに付けているだけで、伸ばして立てて使うつもりはないのだ、と説明しても、どうしてもはずしてくれと言う。 2回目はロビーで吹き抜け空間にカメラを向けていると、再び係りの人に呼びとめられ、「写真撮影されるであれば折り入って伝えたいことがある。それを説明するので、その後、書面に確認の署名をしてください」と。おそらく自分にカメラを向けられたと感じると、不愉快に感じる人もいるので、充分気をつけて撮してください、という主旨だと思うのですが、署名とまで言われるとさすがに面倒くさくなり、もう撮影は終わりました!と告げて、何とかご勘弁いただいたという次第です。 どこからでも隅々まで見渡させる一体的な複合空間。写真撮影が自由とされている展示室。まだオープンしてまもないこともあり、管理運営する側でも色々と思考錯誤している段階なのかも知れませんが、必要以上の行き過ぎた管理(監視)のために、このユニークな建物が、作り手が意図した施設のあり方と違う方向に行ってしまうことの無いよう願いたいものです。始終どこかから監視されている街など、決して居心地のよいものではありませんから。
カテゴリ:
2016.05.19
保存改修工事が完了したロームシアター京都(旧京都会館・1960年完成)の見学会とシンポジウムが、平成28年5月10日(火)日本建築学会 近畿支部 の主催で開催されたので、出かけてきました。 この度、その建築作品の数々が世界遺産に登録されることになった建築家ル・コルビジェの弟子である前川國男設計のこの建物は、言うまでもなく日本近代建築の代表作です。 2010年に「オペラハウスに建替える予定」と新聞紙上で発表されると、各界から強い疑問と反対の声があがった事は、我々建築に係わる者にとっては記憶に新しいところです。 以後、多くの議論を経て、残すべきものは残し、改修すべき部分は丁寧に改修する、既存を尊重しながら必要なものを付加する、そしてどうしても現在求められる機能が果たせない部分についてはやむなく建替える、という方針のもと、今私達が目にすることが出来るロームシアター京都が完成しました。今後、モダニズム建築の保存改修を考えるにあたって、優れた試金石となる素晴らしい事例だと思います。
岡崎公園につながる広場からの眺め
二条通東側の景観。1階にはブック&カフェ(TSUTAYA)2階にはレストランが入っていて、街路に賑わいが生まれて随分親しみやすい印象となりました。
多目的ホールとして生まれ変わったサウスホール
正面に、今回新たに付加されたガラス貼りの共用空間が見えますが、水平に伸びた庇が強調された建物全体の印象はほとんど変わっていません。正面右奥にレンガ張りの大ホール舞台部分の壁面が見えます。この部分の高さは、既存より高くなっていますが、写真右手前の客席部分は勾配屋根を用いてボリュームが抑えられているので、違和感は感じられません。
4階メインホールのホワイエ。東山の山並みを望む大庇上のテラスに面しています。
いかに優れた建築であっても、時の流れと共に老朽化し、また機能面でも時代に合わないものになっていくのは否めません。よって、建築物を時の経過に抗って化石のように当時の姿のまま保存するのが決して正しいとはいえず、時代の流れの中で人々に愛され永く使われ続けることが建築物としての本懐でしょう。優れた建築を「残す」ことと、その建築が生き続けるために「必要な手を加える」ことは、同義であると言えます。 「ロームシアター京都」では、この前川國男の名作をしっかりと次世代に引き継ぐために、「時代ごとの新しい価値を、古い価値の上に重ねていく」というコンセプトで、保存改修が為されました。 現在の日本に数多く存在する優れた「モダニズム建築」を生かすためには、既存建物の設計者の意図を充分に読み込んだ上で、新しい現代の設計者が、その特質を損なわないため必要な保存改修のスキルを存分に駆使し、さらに時代や環境が求める新しい空間の価値を付加していくこと、そしてその結果として、さらなる時の流れの中で変わらず人々に愛され続けることです。 「ロームシアター京都」は、今後建築物の保存改修を考える上で多くの示唆に富んだ「モダニズム建築の再生」事例であることは間違いありません。カテゴリ:
2016.05.09
GW合間の一日、岡山県津山市に建つ近代建築の知られざる傑作「津山文化センター」を訪ねました。1965 年に完成、昨年50周年を迎えたこの建物は、早稲田大学理工学部建築学科を卒業、清水建設設計部を経て、旧逓信省営繕部設計課に勤務した後、1957年に事務所を設立した、一般的にはほぼ無名と言える建築家「川島甲士」氏の40歳の時の作品です。 最も特徴的なのは、日本の伝統的な寺社建築の屋根を支える持ち送り工法である「斗キョウ」構造を、近代建築を象徴する材料であるプレキャストコンクリートで構築していることでしょう。 逆台形状3層の精緻で力強い「斗キョウ」が伸びやかな水平線を形作りながらフラットな屋根を支える外観のシルエットは、冒頭の写真にあるように抜群に美しいプロポーションで、建物にアプローチしながらしげしげと眺めていると本当に惚れ惚れします。 ホールのある本体とは分離して建てられている展示ホールの壁面は、グラフィックデザイナー「粟津潔」氏によるウェーブ状のレリーフが施されていて、これもなかなかの迫力で見ごたえ充分。本体部分の「斗キョウ」との対比も鮮やかです。
右側が本体とは分離した展示ホール
それにしても、逆台形状の構造のためか、築50年を経過してもコンクリートの汚れや劣化が少なく、当時のままの精緻で美しい外観が維持されているのには驚きです。 1階ホワイエは、外部に面した吹抜け空間。上部には立体格子に照明を絡めた建築化照明が。梁の上を歩くランプ交換は、命綱必須の決死の作業(笑)との事でした。ホワイエ上部の梁と建築化照明
「斗キョウ」のある外周通路
「斗キョウ」はプレキャストコンクリートの部材を一つ一つ組み上げて作られています。内側には近代建築で主流であったスチールサッシュ。外周通路がクッションとなり綺麗に保たれています。 ホール内部も見せていただきました。局面を描く天井はベニヤ下地にクロスを張って作られているそうです!外観とは対照的なインテリアですね。黒い楕円形の3つの穴は巨大なスピーカー。 ホール側面はコンクリート打放し仕上げで、音響効果を考慮したというリブパターンが施されています。音響設計は、なんとあの大隈講堂を設計した佐藤武雄氏が手掛けたそうです。 天井中央の大きなシャンデリアもこの種のホールでは珍しいですね。ホワイエの一角に鎮座する模型
中2階側出入り口のあるシンメトリーな外観
かって天守閣のあった鶴山公園のふもとに経つ「津山文化センター」。軒先に向かって広がっていく外観は、台形状の鶴山城の城壁との対比が図られていると言えますが、実は、川島甲士は京都国際会館のコンペでも、この「津山文化センター」とそっくりの逆台形状の「斗キョウ」のある案を提出しています。日本独自の様式を近代的な材料と技術で再構成したこの案に、よほどの思い入れがあったのでしょう。自らが信ずる新しい時代の日本建築を何としても生み出したいという、当時の気鋭建築家の熱意がひしひしと伝わってくる作品でした。 近々に耐震改修が施される予定とのことですが、この建物に充分な敬意を払った上で、原型の魅力を損なわない方法で慎重に実施して欲しいと思います。カテゴリ:
2016.04.01
仕切り直し前の新国立競技場のデザインを手掛けた女性建築家、ザハ・ハディドさんが急死した、とのニュースが飛び込んで来ました。気管支炎で入院治療中のところ、急な心臓発作で亡くなったとのことですが・・・病院内での出来事なのにかかわらず、病院側がどうして対応できなかったのか?率直に疑問が残ります。 新国立競技場の新たな採用案が自分たちの案を下敷きにしていると強く主張して、法的手段の可能性まで示唆し、これまでの設計報酬の支払いについてもJSCとの間で協議中であったこの時期の急死だけに、なんとも釈然としない印象は拭えません。そして、ザハ氏自身、思いもかけずに訪れたであろう自らの死の瞬間を果たしてどんな思いで迎えたのだろうか・・と想像すると、やりきれない思いにかられます。 当初の彼女のデザインが、あの新国立競技場の建つ神宮外苑のコンテクストにふさわしいものであったかどうかは別として、初期案における曲線のもつ流麗さとダイナミズムを大胆に駆使したエキセントリックな造形は、他の案に比して群をぬいて独創的でした。アンビルドの女王と呼ばれ、その斬新な造形に建築技術がついてこれない時期もあったようですが、近年の建築技術の長足の進歩と建築予算に寛容な事業主にも支えられ、世界各国で独創的な作品を生みだしてきました。 享年65歳、アラブ社会で生まれた女性建築家が、これだけの実績を積み上げてこられたのは、彼女自身と努力と天賦の才能はもちろんですが、やはり建築業界では奇跡と言っていいでしょう。一人の建築家の傑出した才能が世界中の国家的プロジェクトを動かしていくことが出来るんだ!・・という建築設計を志す者たちが抱く夢を、まさにダイナミックに実現した偉大で稀有な建築家の一人といえます。 晩年の新国立競技場計画での日本との関わりが、ザハさんの中でおそらく良い思い出では終わらなかったであろうことについては、日本人建築家の端くれとして申し分けない気持ちになります。もう、新国立競技場問題でザハさんを否定的に捉えるのはやめにしましょう! ザハ・ハディドさんを筆頭とする設計チームが遺した遺産は、新しい設計者がいくら否定しようとも、おそらくベーシックなスタジアム部分で継承されていると私は思います。もちろんこのような状況になったのは、コンペの進め方自体に問題があった事は否めませんが、今となってはJSCも新しい設計者も、前案を継承した部分は素直に認めた上で、ザハ事務所との著作権(道義上の)問題にも、適切に対処してもらいたいものです。 謹んでザハさんのご冥福をお祈りいたします。 最後に建築家の磯崎新氏が、親しい建築関係者に送付したとされるザハ氏を追悼する痛切な手記を紹介しておきます。 出典はコチラ。http://www.buzzfeed.com/daichi/isozaki-note-for-zaha#.by8NELBMjM そのイメージの片鱗が、あと数年で極東の島国に実現する予定であった。ところがあらたに戦争を準備しているこの国の政府は、ザハ・ハディドのイメージを五輪誘致の切り札に利用しながら、プロジェクトの制御に失敗し、巧妙に操作された世論の排外主義を頼んで廃案にしてしまった。その迷走劇に巻き込まれたザハ本人はプロフェッショナルな建築家として、一貫した姿勢を崩さなかった。だがその心労の程ははかりはかり知れない。 〈建築〉が暗殺されたのだ。 あらためて、私は憤っている。 彼女の内部にひそむ可能性として体現されていた〈建築〉の姿が消えたのだ。はかり知れない損失である。
カテゴリ:
2016.02.17